目を覚ましたのはもう夕方に差し掛かろうとしているときだった。窓から入ってくる黄金色の午後の光が部屋をいっぱいにしていて、外からは下校する小学生の賑やかな声が途切れ途切れにする。それでも部屋は病的に静かだった。こんな時間に目を覚ましたくはなかった。私は自分のベッドに腰かけたままぼんやりと姉の机とベッドの方に目をやった。チェックインしたばかりのホテルの部屋のように整えられたベッドも、高級ディナーのテーブルに並べられた銀食器のような文具たちも暖かくどこか儚い光を受けて、まるで祝福でもされているかのように煌めいている。机の上に置かれた小さな花瓶にささったサギソウが風もないのに揺れた気がした。部屋の中で光が届かないところにいるのは私と、壁際に立てかけたヴァイオリンケースだけだった。長針がたった一分の距離を進むには、あまりにも大げさな音を立てる。
「おっ、起きた」
開けっ放しにしていた部屋の扉の隙間から姉が覗いていた。
「散歩にでも行かない? 天気もいいしさ」
綺麗ではないが、愛嬌のある微笑み。私は「そうだね」と呟いてベッドから立ち上がった。ズボンを履いて、「私のなんだけど」と口の先を尖らせるのをスルーして少しオーバーサイズな姉のパーカーを着る。姉は相変わらず扉の向こうからこちらを見ている。
「近くの公園にクレープの屋台来てるから、そこまでどう?」
「姉さん、クレープ好きだったもんね」
寝ぐせではねてしまっている髪を後ろで無理やり縛りながら私は答えた。姉はよく私をヘアアレンジの実験台にしてきていた。毛先が首筋を微かに撫でるのがくすぐったいから、正直私はこの髪型は好きじゃなった。でも、姉は私がこの髪型でいる方が可愛いと言って隙があれば結んできた。
「行こっか」
私はヴァイオリンケースを背負って、姉の机の方から楽譜の詰まったファイルを引っ掴んで部屋を出た。
暑さは、いくらか和らいでいた。それでも特有の肌に纏わりつくような湿気を多分に含んだ空気の中を初夏の夕日が真っすぐに降ってくる。時折吹いてくる優しい風がその暑さをほんのひと時かき消した。私は地に足のついていない足取りで前を行く姉を見つめていた。私も大分背が伸びたはずなのに、まだ姉の方が数センチほど大きい。よく手入れの行き届いた髪とすらりと長い手が一歩一歩ごとにリズムよく揺れている。
「学校はどう?」
姉は不意に聞いてきた。
「まあまあ、かな」
「ちゃんと行かなきゃだめだよ」
こちらを少し振り返った姉に私は頷いて見せた。姉は満足そうな顔をして、歌を歌いだした。線路沿いの真っすぐで殺風景な通りを姉は楽しそうに歩いていた。いつだったか、姉はこの真っすぐな道が好きだと言った。「線路と一緒にどこまでも続いているみたいでなんかワクワクする」なんて子供みたいなことを言ってやっぱり歌っていた。
でも私はこの道が嫌いだった。同じ景色過ぎてつまらないって答えたけれど、本当は姉のシャボン玉のようなその歌声が電車が通過する音に遮られるのが私は嫌だった。私は蒸れた背中の空気を入れ替えるためにヴァイオリンケースをしかっりと背負いなおした。
駅の近くにある大きな池の公園はいつだって様々な人が利用している。春先は桜が綺麗で、夏場は日陰が多くて涼しげで、秋は色づいた葉が舞って、冬は少し寂しいけど静かで居心地がいい。黙々と走る人、犬の散歩をする人、学校帰りの寄り道をする人。もう何人とすれ違ったか、何人に追い抜かれたかわからない。ほんのりと甘い香りがした。
「あったよ、クレープ」
姉は小走りに駆けていって、メニュー表を真剣な顔で見ていた。いつもそうだった。どうせ頼むものはいつもと変わらないのに。さんざん悩んで、唸って、なにか大きな決断でもしたみたいに「決めた、やっぱりいつものにする」と呟いた。
「姉さん毎回それだよね」
私はポケットから財布を取り出してにこやかな店員に声をかけた。
「イチゴのやつをお願いします」
暖かい生地に包まれた甘いホイップクリームと少し酸っぱいイチゴ。姉さんはイチゴが好きだった。クレープに限らず、アイスも、ケーキも、何でもイチゴ味のものを選びがちだった。私の分から、こっそり奪っていくこともあった。池のほとりのベンチに腰かけて私はクリームやらチョコソースやらが溢れてとんでもなく食べにくいクレープを齧った。血管が切れそうなほど甘かった。
食べ終えた私はヴァイオリンのケースを膝の上に置いた。池の水は音がしそうなほどに輝いている。水面と風が光るのを見ながら私はケースを開けた。姉のおさがりのヴァイオリンの艶めく木目に私の顔が映っている。姉が「懐かしいな」なんて言いながら覗き込んでくる。
ネジを巻いて緩めていた真っ白い弓毛をピンとさせる念入りに松脂を塗る。そのままの弦で弾いても、ヴァイオリンは鳴りはしない。松脂を塗ることで弓毛のキューティクルに細かい起伏が無数にできて、これがヴァイオリンのあの綺麗な音を鳴らしてくれる。私が、姉からヴァイオリンについて初めて教わったことだった。肩当てをつけて、弦をはじいた。軽い短音がして鋭く張った弦が震える。四本の弦は傷の多い指盤を、ブリッジを通ってテールピンに留められていた。私は楽譜のファイルを開いて譜面台替わりのケースに立てかけた。
両足は、肩幅程度に開く。次に右のつま先を少しだけ外側に開いて、左足に重心がかかるように立つ。左肩甲骨の少し下と、左顎の間で軽く挟むようにしてもって、弧を描くパーフリングに添えていた左手をゆっくりとネックの方へスライドさせる。空いた右手の親指と中指でつまむようにして弓を持つ。親指と、弓が直角になるように。そうしてゆっくりと弓を構えたヴァイオリンに乗せた。腕の力は使わずに、手首と、肩の動きでゆっくり弾く。G線からD線、A線、E線へ、弦の震える特有の音と余韻が夕方の公園にこだました。そっと弦を抑えて音を止め、私は楽譜の方を向いた。シューベルトのエレンの歌・第三番『アヴェ・マリア』。
初めて姉の発表会に行ったときに、姉が弾いていた曲だった。あのときは確かピアノの伴奏があった。でも今は、私だけ。弓を弦に押し当て、弾く。G線の低く滑らかな音。ビブラートは指先を弦の上で転がすようにしてかける。細かく揺らす左手の人差し指を通して声を上げる弦のしなりが体中に伝わった。傷だらけの指盤の上では別の生き物のような弓が緩やかに踊る。歌うようなその音が昼の名残と夜の予兆が同居する夕焼けの空に吸い込まれて消えていく。
「力みすぎたらだめだよ。リラックスして弾いた方がいい音が出るし——」
肘の動きについていくように、綺麗な角度を維持したままで、心地よい重音が鳴り響く。
「その方が楽しいから」
姉はいつだってそういって演奏してた。普段はだらしなくて、頼りない。でもヴァイオリンを演奏しているときだけは違った。弓がそっと離れて曲が終わる。
「上手になったね」
姉はベンチから立ち上がって、池のほとりに立った。私の影が演奏の前よりいくらか伸びたせいで楽譜は微かに暗くなっている。
「うん、これなら大丈夫そうだね」
優しい声がそう言った。私は一歩楽譜に近づいて、そのページを捲った。何枚も、何枚も過ぎてようやく最後のページを開く。これが姉の一番好きだった曲。ヴィヴァルディの『冬』。いつかできるようになりたいとヴァイオリンを始めてすぐの初心者の姉が弾いて見せてくれた曲。つたない音で、つまりながら、失敗しながら弾いた曲。楽譜の一番下には楽譜に近づかなければ見えないほどの小さな、でもたしかに姉の文字で「カッコいいとこ見せてやれ!」とだけ書いてある。私はもう一度ヴァイオリンを構えた。もう間もなく日が暮れる。これが、最後。
静かに始まって、殺人的なまでのスピードで悲鳴に近い高音で。指の先が火傷しそうなほどに擦れて、弓を持つ手が攣りそうなほどの角度で走る。もう、私のいるところに日は届いていない。気温も下がってきて、風は冷たい。
「私——私、お姉ちゃんに憧れてヴァイオリン始めたんだよ」
とても言葉を発する余裕なんてない。つかえても、間違えてでもこれだけは今言わなくてはならなかった。言葉はもう、返ってこない。当たり前だ。最初から姉はいなかった。一週間前に交通事故で死んだから。音が乱れているのがわかる。うまくなくていい、プロに並ばずとも、今はただ弾ききることができればいい。残り火のような空に歪んだメロディーが溶けていく。お姉ちゃん、ありがとう。私はきっと大丈夫。夕日とともに今日が終わる。広くなった私たちの部屋では今もきっとサギソウが揺れているだろう。今は、ただ言葉にできないこの気持ちをヴァイオリンの音色にのせて、沈んだ今日と私達のこの音よ、どうかどうか、くれぐれもヴィヴァルディによろしくと——。
「おっ、起きた」
開けっ放しにしていた部屋の扉の隙間から姉が覗いていた。
「散歩にでも行かない? 天気もいいしさ」
綺麗ではないが、愛嬌のある微笑み。私は「そうだね」と呟いてベッドから立ち上がった。ズボンを履いて、「私のなんだけど」と口の先を尖らせるのをスルーして少しオーバーサイズな姉のパーカーを着る。姉は相変わらず扉の向こうからこちらを見ている。
「近くの公園にクレープの屋台来てるから、そこまでどう?」
「姉さん、クレープ好きだったもんね」
寝ぐせではねてしまっている髪を後ろで無理やり縛りながら私は答えた。姉はよく私をヘアアレンジの実験台にしてきていた。毛先が首筋を微かに撫でるのがくすぐったいから、正直私はこの髪型は好きじゃなった。でも、姉は私がこの髪型でいる方が可愛いと言って隙があれば結んできた。
「行こっか」
私はヴァイオリンケースを背負って、姉の机の方から楽譜の詰まったファイルを引っ掴んで部屋を出た。
暑さは、いくらか和らいでいた。それでも特有の肌に纏わりつくような湿気を多分に含んだ空気の中を初夏の夕日が真っすぐに降ってくる。時折吹いてくる優しい風がその暑さをほんのひと時かき消した。私は地に足のついていない足取りで前を行く姉を見つめていた。私も大分背が伸びたはずなのに、まだ姉の方が数センチほど大きい。よく手入れの行き届いた髪とすらりと長い手が一歩一歩ごとにリズムよく揺れている。
「学校はどう?」
姉は不意に聞いてきた。
「まあまあ、かな」
「ちゃんと行かなきゃだめだよ」
こちらを少し振り返った姉に私は頷いて見せた。姉は満足そうな顔をして、歌を歌いだした。線路沿いの真っすぐで殺風景な通りを姉は楽しそうに歩いていた。いつだったか、姉はこの真っすぐな道が好きだと言った。「線路と一緒にどこまでも続いているみたいでなんかワクワクする」なんて子供みたいなことを言ってやっぱり歌っていた。
でも私はこの道が嫌いだった。同じ景色過ぎてつまらないって答えたけれど、本当は姉のシャボン玉のようなその歌声が電車が通過する音に遮られるのが私は嫌だった。私は蒸れた背中の空気を入れ替えるためにヴァイオリンケースをしかっりと背負いなおした。
駅の近くにある大きな池の公園はいつだって様々な人が利用している。春先は桜が綺麗で、夏場は日陰が多くて涼しげで、秋は色づいた葉が舞って、冬は少し寂しいけど静かで居心地がいい。黙々と走る人、犬の散歩をする人、学校帰りの寄り道をする人。もう何人とすれ違ったか、何人に追い抜かれたかわからない。ほんのりと甘い香りがした。
「あったよ、クレープ」
姉は小走りに駆けていって、メニュー表を真剣な顔で見ていた。いつもそうだった。どうせ頼むものはいつもと変わらないのに。さんざん悩んで、唸って、なにか大きな決断でもしたみたいに「決めた、やっぱりいつものにする」と呟いた。
「姉さん毎回それだよね」
私はポケットから財布を取り出してにこやかな店員に声をかけた。
「イチゴのやつをお願いします」
暖かい生地に包まれた甘いホイップクリームと少し酸っぱいイチゴ。姉さんはイチゴが好きだった。クレープに限らず、アイスも、ケーキも、何でもイチゴ味のものを選びがちだった。私の分から、こっそり奪っていくこともあった。池のほとりのベンチに腰かけて私はクリームやらチョコソースやらが溢れてとんでもなく食べにくいクレープを齧った。血管が切れそうなほど甘かった。
食べ終えた私はヴァイオリンのケースを膝の上に置いた。池の水は音がしそうなほどに輝いている。水面と風が光るのを見ながら私はケースを開けた。姉のおさがりのヴァイオリンの艶めく木目に私の顔が映っている。姉が「懐かしいな」なんて言いながら覗き込んでくる。
ネジを巻いて緩めていた真っ白い弓毛をピンとさせる念入りに松脂を塗る。そのままの弦で弾いても、ヴァイオリンは鳴りはしない。松脂を塗ることで弓毛のキューティクルに細かい起伏が無数にできて、これがヴァイオリンのあの綺麗な音を鳴らしてくれる。私が、姉からヴァイオリンについて初めて教わったことだった。肩当てをつけて、弦をはじいた。軽い短音がして鋭く張った弦が震える。四本の弦は傷の多い指盤を、ブリッジを通ってテールピンに留められていた。私は楽譜のファイルを開いて譜面台替わりのケースに立てかけた。
両足は、肩幅程度に開く。次に右のつま先を少しだけ外側に開いて、左足に重心がかかるように立つ。左肩甲骨の少し下と、左顎の間で軽く挟むようにしてもって、弧を描くパーフリングに添えていた左手をゆっくりとネックの方へスライドさせる。空いた右手の親指と中指でつまむようにして弓を持つ。親指と、弓が直角になるように。そうしてゆっくりと弓を構えたヴァイオリンに乗せた。腕の力は使わずに、手首と、肩の動きでゆっくり弾く。G線からD線、A線、E線へ、弦の震える特有の音と余韻が夕方の公園にこだました。そっと弦を抑えて音を止め、私は楽譜の方を向いた。シューベルトのエレンの歌・第三番『アヴェ・マリア』。
初めて姉の発表会に行ったときに、姉が弾いていた曲だった。あのときは確かピアノの伴奏があった。でも今は、私だけ。弓を弦に押し当て、弾く。G線の低く滑らかな音。ビブラートは指先を弦の上で転がすようにしてかける。細かく揺らす左手の人差し指を通して声を上げる弦のしなりが体中に伝わった。傷だらけの指盤の上では別の生き物のような弓が緩やかに踊る。歌うようなその音が昼の名残と夜の予兆が同居する夕焼けの空に吸い込まれて消えていく。
「力みすぎたらだめだよ。リラックスして弾いた方がいい音が出るし——」
肘の動きについていくように、綺麗な角度を維持したままで、心地よい重音が鳴り響く。
「その方が楽しいから」
姉はいつだってそういって演奏してた。普段はだらしなくて、頼りない。でもヴァイオリンを演奏しているときだけは違った。弓がそっと離れて曲が終わる。
「上手になったね」
姉はベンチから立ち上がって、池のほとりに立った。私の影が演奏の前よりいくらか伸びたせいで楽譜は微かに暗くなっている。
「うん、これなら大丈夫そうだね」
優しい声がそう言った。私は一歩楽譜に近づいて、そのページを捲った。何枚も、何枚も過ぎてようやく最後のページを開く。これが姉の一番好きだった曲。ヴィヴァルディの『冬』。いつかできるようになりたいとヴァイオリンを始めてすぐの初心者の姉が弾いて見せてくれた曲。つたない音で、つまりながら、失敗しながら弾いた曲。楽譜の一番下には楽譜に近づかなければ見えないほどの小さな、でもたしかに姉の文字で「カッコいいとこ見せてやれ!」とだけ書いてある。私はもう一度ヴァイオリンを構えた。もう間もなく日が暮れる。これが、最後。
静かに始まって、殺人的なまでのスピードで悲鳴に近い高音で。指の先が火傷しそうなほどに擦れて、弓を持つ手が攣りそうなほどの角度で走る。もう、私のいるところに日は届いていない。気温も下がってきて、風は冷たい。
「私——私、お姉ちゃんに憧れてヴァイオリン始めたんだよ」
とても言葉を発する余裕なんてない。つかえても、間違えてでもこれだけは今言わなくてはならなかった。言葉はもう、返ってこない。当たり前だ。最初から姉はいなかった。一週間前に交通事故で死んだから。音が乱れているのがわかる。うまくなくていい、プロに並ばずとも、今はただ弾ききることができればいい。残り火のような空に歪んだメロディーが溶けていく。お姉ちゃん、ありがとう。私はきっと大丈夫。夕日とともに今日が終わる。広くなった私たちの部屋では今もきっとサギソウが揺れているだろう。今は、ただ言葉にできないこの気持ちをヴァイオリンの音色にのせて、沈んだ今日と私達のこの音よ、どうかどうか、くれぐれもヴィヴァルディによろしくと——。