──高岸美波子は、葛野紘也にとって都合がいい存在だった。
適当に好きな人を作ったことがある。適当な、というべきかもしれない。自分の中に好きな人が存在すると毎日がちょっと幸せになる。同じクラスにいる人なら勉強のモチベーションも多少は高まるしかっこつけたくなる。
そういう理由で、葛野紘也は「推し」を作った。もとより戻ってくるものを期待していない。いるだけでいいのだから。
「葛野くん」
と紘也は中学の誰もいない教室で呼び止められる。記憶のなかの教室はどこか色褪せている。名前を呼んだ声は凛としていてその世界に色を与える。その声音を紘也はよく覚えていた。いつも目で追っている、女の子だったからだ。
特段仲良いわけでもない、友達の友達くらいの距離感の彼女。横矢瑞希と紘也は、そこではじめて二人きりの会話をした。
「最近、私のことよく目で追ってるよね?」
それは既に死刑宣告のようなジャブだった。目で追っている、ということがバレているということは、本気に思われているかもしれないし勘違いされているかもしれない。
目、合うもん。と彼女は言った。
「ごめん、見てたかも」
紘也にはあの時どう返せば正解だったのか今でもわかっていない。
「だよね。ちょっと私にそういう気があるの?」
好き、というべきなのだろうか? 紘也は逡巡した。受け手から始まったこの会話だが、二人きりの教室というのは良いタイミングだった。それに、紘也は交際に興味があった。
「あるかも」
「やっぱり。やめてよね。私そういうの好きじゃないから」
適当に作った、好きな人だったけれど。紘也は粗雑に振られた。とくに好きでもない女に。
それから紘也はよく知らない人を好きになるのをやめた。
アイドルグループ「虹色ケーキ」は、友人のお薦めで知った。紘也の場合、それから水色担当、黒岩寧々のことを顔が好みだと友人に言ったことで、「じゃあ推してみなよ」と言われ推し始めた。その時、紘也に好きな人がいなかったからひとまず「推し」ということにした。
しかし、推しとの交流の為にはお金が必要だった。お金を払っても形式的な会話をするだけで、真に迫ったようなことは何一つ出来ない。認知してくれるまで根気よく推し活に励むのは、紘也にとってお金が勿体無いという感情を強く残すだけだった。果たして、黒岩寧々への感情は冷めていった。
そんな時、最後にしようと決めた「虹ケー」のライブで、隣に立っていた高岸美波子と紘也は知り合う。
肩がぶつかって、目があう。
「誰推しなんですか?」
美波子は虹ケーのTシャツを着て、首筋に汗を浮かべていた。夏の夕暮れ時だったが、湿度の高い空気のせいで熱がこもっていた。ライブが始まる前、美波子はそう訊いた。
「あ、寧々ち推し」
「あ、本当? 私も寧々ちゃんなの!」
そう言うと、美波子は自分の持っている寧々のブロマイドや水色にセットしてあったサイリウムを見せつけた。
「何新規?」興奮で赤くなった顔のまま、美波子ははっとなった。「あ、ごめん名前なんていうんだっけ。私、ミナって名前でツイッターやってます……」
そのテンポのまま、美波子は紘也にスマホを見せた。美波子の後ろ姿のアイコン。
「あ、見た事あるかも」
「本当⁉︎」
「俺、これ」
「あーコウヤくん! へー初めて見た。ツイッターだとあんまり呟かないよね。寧々ちゃん関連のリツイートばっかで」
「最近オタクやめようかなって思ってて」
「何で? リアルが忙しい?」
「そういうわけじゃ……」
「えー勿体ないよ、今めっちゃ寧々ちゃん熱いのに!」
グループでの人気をじわじわと上げてきている黒岩寧々は、次のシングルでセンターをかざるだろうと言われていた。
「センターくるまで続けようよ!」
ファンの鑑のような励ましによって、紘也も少し気が変わっていた。しかし、寧々に対して何らかの感情を持ち始めたわけではない。理由を、ライブに足を運ぶ理由を美波子に変えたからだった。
「わかった」
そう返事すると美波子は嬉しそうに、「で、何新規なの?」とさっきの質問を繰り返した。
「俺はセカンドシングルの『瑠璃猫』から。友人に教えてもらって」
それからぽつぽつと、ツイッターで匂わせていた通り美波子は大学生であること、紘也も言わないだけだが大学生であることを告白し、同学年だということがわかって、更に互いは打ち解けていった。私生活に踏み込む話題もちらほらと出始め、これ以上は困るなと紘也が思ったところでライブは始まった。
それは圧巻のライブだった。セトリも完璧で、ファンの欲しいツボを全てついてくる。
ここと、ここと、ここがよかった。そんな感想では済まない。全部が、全部が良かったと二人はライブの熱を爆発させて語った。紘也が一曲目から良いところ全てを語れるように、美波子も熱い感想を言えるようだった。それが紘也にちゃんと伝わっていて、美波子にもちゃんと伝わっていた。全部、紘也にとってはまやかしなのに。
推しが同じだということも幸いした。二人は敷かれたレールをそのまま走るように連絡先を交換して、先約があるからと感想戦をそこそこにしてライブ会場を後にした。
紘也が黒岩寧々のブロマイドにフィルターがかかって見えるようになったのはその日からだった。美波子という良き友人ができたおかげで、ある種の神秘めいた、神格性を宿したような気がした。たったひとつ、熱くなるものがあるだけで、紘也の人的評価は爆上がりしてしまう。
「そろそろライブ終わったか? 頼んでたグッズは買ったんだろうな?」
紘也を虹ケーにはめた友人から連絡が来る。予約していたホテルへと向かう電車にガタガタと揺られて、疲れに導かれて寝落ちしてしまいそうなところにきた連絡だったので、少々扱いが雑になる。
「買った買った。ライブめっちゃ良かったぞ。来れば良かったのに」
その興奮のまま、紘也は美波子のことを書こうとする。友人は紘也の過去に失敗した恋愛のことを知っていた。中学の頃からの仲だった。だから言わなかった。よくない、めんどくさくなる、と思って紘也はスマホから目を離した。
*
黒岩寧々の瞳は何度も変わる照明の光に照らされて、美しかった。髪のしなり首筋に浮かんだ汗。モニターで見る事の出来るそれらは、やはり人間の肉体美を超越して、アイドルとしてただただ美しいものだった。
──10thシングル記念ライブ。気がつくと、紘也は当然のように握手会とライブに参加していた。意識的になればなるほど、黒岩寧々の美しさに目がいく。紘也は黒岩寧々をはじめて純粋な目で見ることができた。その偶像はもう用無しだったから。
「きゃ〜〜今日の寧々ちゃんほんとに可愛い」
「いつもそんなこと言ってない?」
紘也は口元を手で覆って感激している美波子を見た。今回のライブは、美波子と一緒に待機列に並んだのもあり、隣に立てたのは必然だった。
美波子の瞳は水色を身に纏う寧々の色に色付いている。黒目の中に添えられた、一筋の薄い青。手元で光っているサイリウム。まもなく、ライブが始まる。
「次のライブさ」
アンコールまで楽しんだ美波子と紘也は、美波子の息を切らしながら発した言葉によって現実に引き戻された。次のライブとは時期的に全国ライブのことを指していた。開催地は大阪。また金がかかる。
美波子はあらたに息を整えて、
「次のライブ、連番しない? コウヤくんと観戦するの楽しいし、信用できるかなって」
美波子は溢れる汗を推しのタオルで拭いた。東京の会場は熱気がこもって暑かった。その信用は、どういうものなのだろう。その信用の裏返しに、紘也は何ができるだろう。そもそもこの感情は、不純なものなのだろうか。わからない、普通ってなんだ。
そういうわざわざ言語化しないもやもやとしたものを抑えて、紘也は笑った。
「いいね、めっちゃいい。いつもリア友とここの会場しか行ったことがなかったから、そういうのやってみたい」
「おし」それに応えるように美波子は言うなり頭に垂らせていたタオルを手に取って、ピンと張らせた。
紘也の心に優しさが染み入る。そしてそれにつけこむ。甘い蜜を吸うように、その蜜を紘也は愛し、その蜜でしか紘也は生きられない。それ以外の感情も行動も全部蜜を吸うための打算でしかない。
「初遠征、ちゃんと私が導いてやるから!」
美波子は気負って宣言した。それは紘也にとって有難いものでしかない。
「よろしくね」
罠にかかった獲物のこれからを楽しむような、じわじわとした悪意を促すような返事だった。
その晩、インスタのストーリーを見た友達から揶揄うようメッセージが届く。友人は彼女が出来て、アイドルとは距離を置いている。疲れてシャワーで汗を流し、夢現の状態でその通知に目をやった。
『最近その女の子と仲良いな』
友人が反応したのは、ライブ会場を背景に二人で推しのブロマイドを並べて撮った写真だった。紘也は美波子のことをよく彼に話しており、それで言わなくとも美波子だとわかったようだった。
「よく喋ってくれるし、明るいから楽しい」
頭がぼーっとなりながら、紘也は半ば無自覚に美波子の良いところを書いていく。
「好きなん? その子のこと」
「好きかも」
そのメッセージに紘也が返したのは一瞬で、しかし友人はなかなか返事を寄越さなかった。タイピング中のマークだけが出ている。なにか長いことでも言われるのかと身構えたが、結局返信は一言だけだった。
『お前、それ女オタオタじゃねえか?』
紘也はその言葉の意味について考えた。すとん、胸に落ちたのもあってその言葉が自分にどう当てはまるのか考える。女オタオタとは、ツイッターで最近よく見る言葉だった。わざわざネットで検索することもなかったが、ツイッターの海を漂っているとその気がなくても意味を知れた。
アイドルが好きな女性ファン、女性オタク。女オタオタ、そのファン、オタク。
いや違う、とかっと熱くなって紘也は心中で否定した。眠気は今の友人の言葉で殺された。そして、自分が女オタオタであると揶揄されたことで、惨めになった。感情のバーが憤りから悲しみに逸れていく。頭の重さでへこんだ枕に、涙が染みつきそうになる。ぐっ、と涙はこらえた。どうにか否定したかったから。
「違うよ、別に」
「だってその子はどう思ってんだよ。お前のことを」
「普通のオタク仲間だよ」
「その子は恋愛感情なんて持ってないんだよ。そもそも現場にそういう感情を持ち込むなんて」
言って、友人の言葉が切れた。紘也はうっすらと友人の今の彼女は虹ケー関連で知り合ったらしい、と聞いていた。
全部が悪いわけではないのだろう。ただ友人はやり方が良かっただけで、そして自分は良くなかった……友人に見えるところでやってしまったから。
「違うって。恋愛感情なんかじゃない。ただの友情だよ。友愛」
言い訳の仕方なんていくらでもあった。だって、紘也の感情は友情も恋愛感情も愛情も判別不可能で、全てが同じに見えた。昔いた彼女も、どういう好きだったかもう思い出せない。あの日、あの教室で横矢瑞稀に告白する前から振られてから、もうまともな恋愛はできなくなってしまった。全部あいつが悪いのかもしれない。全部……普通に恋愛ができない自分が悪いのかもしれない。
美波子は大事な友人だ。彼女に良くしたいし、良くされたい。これからも関係を続けたい。それだけだ。きっと。それだけにする。
友人の返信は、『そうならいいんだけどよ』で締められていた。
*
「わっかんねえ」
ライブ十数時間前。紘也は新幹線で大阪についてから梅田駅での美波子と待ち合わせに、紘也はもがいていた。どうにか目的地に着きはしないかともがけばもがくほど、逸れていっている気がする。どこが目的地なのかも紘也はもう分からなくなりそうだった。掲示板や壁にかかっているマップのナビゲーションを見ても、全部が全部大阪で梅田駅で梅田駅なのだ。
ふらふらと地下を漂っていると、待ち合わすことすら出来ない紘也を心配して、美波子がDMをくれる。
「じゃあ、そっちいくから今いる場所写真で送って!」
情けなくも紘也は従う。目に入るものでわかりやすそうな掲示板とお店を二枚。
「わかった。そっちいくから動かないで!」
それから数分して、美波子がスマホを掴んだ手で、大ぶりに手を振って現れた。オープンショルダーのブラウス、プリーツスカートを身に纏って。紘也はTシャツにワイドパンツの出立ちだった。美波子の落ち着きのある雰囲気に反して、バタバタとした動きで紘也の方に向かってくるのが、紘也は面白かった。
「お疲れ〜。梅田迷路なの忘れてた! 一緒に行ければ良かったよね」
手で顔を仰ぎながら、美波子は言った。大阪への新幹線には当初二人で行く予定だったが、紘也の夜勤のシフトが変わり、別の時間で行くことになった。
「まあ新幹線でちょっと寝れたから思うよりきつくない」
「じゃ、良かった」
ここにくるまでの会話で、夜勤明けの徹夜だということを話すと美波子は少しでも寝て、と怒った。
会話もそこそこに大阪メトロに乗り換えて、最寄駅まで向かった。
*
虹色ケーキが全てを変えてくれた、と美波子は言った。それはいつしかのライブで美波子が語った、黒岩寧々に対しての想いだった。虹ケーに出会うまでの美波子は、パートナーに振られ、生活が荒んでいた。人を好きになることに対して、猜疑心は生まれたと。その時、CMか何かで黒岩寧々という存在に出会い、推しというものに出会ったと。
推しへの出会いは千差万別だが、推しに救済を求めているファンは少なくないようだった。
「着替えはその鞄に入っているの?」紘也は訊いた。美波子が提げている鞄を指差して。
「そうそう。いつも化粧室で着替えてる」
「あの服で会うと思ってた」あの服とは、虹ケーという箱のTシャツを指している。
「何言ってんの、バカじゃない」そう言って、美波子は笑った。
ラメ入りの化粧をした美波子の目元が光った。
前回のライブの時、同時に行われた握手会で、美波子は寧々に「愛してる」と言った。あの短い握手の時間で全ての気持ちを伝えるには、端的なその言葉が適していた。それに美波子の寧々に対する愛情は本物だったから、それで良かった。その後に続いた紘也が伝えたのは、「センターになってください。最後まで応援しています」だった。応援、という言葉が紘也の寧々に対する感情としては相応しかった。応援というちょうどいい、言い逃れ出来る言葉が、気楽だった。
そして黒岩寧々の反応は、どちらも「ありがとう」のみだった。美波子ちゃんありがとう。紘也くんありがとう。頑張るね。
そして黒岩寧々は大阪のドームライブでセンターを飾った。
*
黒岩寧々がセンターのライブは素晴らしかった。ただただ素晴らしかった。オタクとして、ファンとして、それしか言語化できなかった。それしか形容できない。素晴らしい、と言わざるを得ない、素晴らしい、で口をつぐんで終わらせなければならない。あとの言葉は蛇足になる。
美波子は感動に浸りながら、夜は大阪にいる友達とご飯を食べる、といって紘也と別れた。
紘也はホテルで一人になった。美波子とは同じホテルだが、別の部屋だ。安い、全国展開されているビジネスホテル。紘也はホテルの案内についていたチラシを見て、ピザの出前を頼んだ。ツイッターでライブの感想をパブサしながらマルゲリータを食べた。
ベッドでぼーっとしながら天井を眺めていた。やることがないから。ツイッターを見ても楽しくない。美波子のツイッターは更新されない。紘也はすうう、と呼吸が浅くなり寝た。
十時になって、紘也は目を覚ました。朧げな意識のまま、本能に唆されてスマホを見る。美波子からラインが入っており、「晩酌しない?」とのことだった。
「おつかれ〜」
ライブ前の洋服に着替えており、フローラルな香りが紘也の鼻腔をくすぐった。自分も軽くシャワーを浴びるべきだったのかもしれない、と紘也は遅まきながら思った。
「ちょっと帰りにお酒買っちゃってさー」レジ袋に入った何本かの酒を見せながら「ライブの感想も十分に語れなかったし」
ここに置いていい? と美波子は丸テーブルにお酒を置いた。二人は、おつまみとしてベイクドチーズを食べながら、缶をプシュと開けた。
「ライブさ……」先に口を開いたのは美波子の方だった。しかし後が続かない。「なんていえばいいの。あれ」
ごく、と美波子はチューハイを呷った。「私、死んでもいいと思ったもあれがはじめて」
黒岩寧々のパフォーマンスには魂が宿っていた。ダンス、歌、本人が命を削っているのがわかる。あんなのを見て、誰が他のメンバーを推そうと思えるのか。寧々推しの二人には、他のメンバーは完全に有象無象になっていた。
「俺は……怖いと思った。どれだけ練習すれば、いやどんな境地に立てばあんなことができるんだろうって。怖いよ、才能が」
美波子は黙っていた。紘也も押し黙った。
「美波子ちゃんは最近どう? 大学」
話題を変えようと、紘也は美波子に話題の焦点を当てた。「まあまあ」と美波子が答えると、紘也は続け様に美波子ちゃんは、美波子ちゃんは、と“美波子ちゃん”ではじまる質問を繰り返した。
夕飯を一緒に食べれなかった疎外感とあのホテルの天井を見つめることで覚えた虚無感をお酒の力で増幅して美波子の私生活を深掘りするような話を連発した。
言葉にはしないが、紘也はあの時、あのライブ会場で、美波子にも魅入っていた。懸命に推しを推す姿が、誰よりも綺麗だった。汗の滴る顔で、寧々を映した瞳が、淡く水色に輝いていた。その水色のサイリウムは美波子のためにあるんじゃないかと紘也は思った。
紘也は紛れもなく酔っていた。美奈子も頬を薄く赤らめていて、酔いが体に回っていた。
「美奈子ちゃんはさ、」
「ねえ、」
「……」
紘也が喋るのを美波子が割って入って止めさせた。
「コウヤくんはさ、薄々気づいてたんだけど、私のこと好きなの?」
私のことをどういう目で見てるの? いくらオタク仲間でも、リアルに深入りしすぎじゃない?
責めるような物言いが続いた。
紘也はテーブルに置いてあった寧々のブロマイドを逃げるように見た。魅力的で、人の視線を吸い寄せるような力を持っている。対して、真面目に美波子の方に向き合うと、同じような目をしていた。それは自分が立てた問いに全力で解釈しようとする真剣な眼差しだった。紘也は痛痒を感じていた。
嘘で答えることが正解なのか? 自分の気持ちに嘘をつくことが正解なのか? そもそも、美波子は適当に好きになった人なのか──。
紘也の沈黙が処刑までの時間を引き延ばした。
あー、全てを壊したい。そういう欲求が、紘也を襲った。美波子に惹かれたのは確かだ。それだけは間違いじゃない。友達でいて欲しい。恋人でもいい。じゃあ──。
「好き」
好きにはさまざまな意味があると紘也は思っている。様々に意味があると許容しない人が嫌いだ。
美波子は静かに固まっていた。紘也の今の言葉に、感情を溢すこともなく、静かに──。静かに、対処していた。その感情の機微は、紘也からも見てとれた。
美波子がゆっくりと咀嚼し終えると、言った。
「コウヤくんは私にどうして欲しいの」
紘也は、その問いへの答えは決まっていた。
「どうもしない。今のままでいれば十分」
「付き合おうとか言わないの?」
「付き合っても、多分、崩れる。そりゃ付き合いたいけど、付き合いたいけど、変わってしまう方が嫌だ」
「好きと答えたのはあなただよ」
「答えるしかなかった」
「寧々ちゃんのことは? 本気で推してたんじゃないの?」
「だからやめようかなって言ったんだよ。あの時」
紘也の言葉に少し怒気が混じった。わかってくれようとしてくれているのに、まるで分かっていない。
じゃあ、と紘也の言葉を継ぐようにして言った。それは審判の言葉だった。
「コウヤくんは、推しを推してないんだね」
それは女オタオタを責めた言葉だったのか、紘也には分かりかねた。
「冷めた。じゃあね、帰る」
美波子は持ってきたもの全てを残して、部屋を出ていった。テーブルにはまだ数本の酒があった。
残された紘也は、美波子の飲みかけの酒をもったいないという理由で飲み干した。それ以外の感情は押し殺した。潰された気持ちの中に、ぐちゃぐちゃになった好きの文字を紘也は見ないふりをした。