鉛筆を落としたような音がして私の隣で彼女がバラバラになり始めた。
それは小さな音だったが、それでも二限の数学の授業中になる音にしては大きすぎた。幾人かのクラスメートが振り返ったり、横目に流すようにしたりして彼女と私の方を見た。私は数式を書いていたペンを置いて、椅子を軽く引きながら彼女の方へと身を乗り出した。指先、手首、前腕と順にバラバラと取れていく彼女は机に顔がついてしまいそうなほど前のめりになっていてその顔はどこも見ていない。そうしているうちに彼女の左上腕が外れて、少し大げさに床へと落ちた。
「大丈夫?」
そう言いながら私はたった今床に落ちた彼女の左上腕を拾いあげて渡そうとした。が今度は右の上腕が外れた。
「大丈夫?」
私はもう一度彼女に問いかけた。彼女は随分間をあけてからゆっくりと視線だけを私の方へ向けると「あ」とだけ言い、同時にぐらりと揺れてその頭が外れた。どこの席からか、息を呑み、悲鳴を殺したような音がする。私は少しだけ開いた自分の鞄の中を、それから黒板の上方に掛けられている時計を見た。授業時間はまだ半分ほど残っていた。
「ごめんね、いつも」
ベッドの上、首を据えられた彼女は天井を向いたまま抑揚のない声でそう言った。あの後、私は彼女の頭を、先生がカゴに入れた彼女の腕と首から上と両腕の取れた体を持って三階から一階の保健室まで運んだ。虚無な表情だった彼女は、私がその頭を抱きかかえると眠るように目を閉じた。三階から一段一段と階段降りる時、先生の持っているカゴと彼女の体からはプラスチックのブロックをぶつけたような軽い音がしていた。
「私、一旦教室に戻るけど」
「彼女を直して、一緒に戻ります」
「ごめんなさい。お願いね」
先生は不安そうな、心配そうな表情で保健室を出て行った。彼女がバラバラになることを気持ち悪がったり、揶揄ったりする連中の方が多い中、先生は上辺だけではなく本当に心配してくれていると思う。そう思いながら私は、ところどころ外れている足のパーツを直してから彼女の頭を戻してやった。
「数学って——」
彼女はそう言ってから、言葉を探すように黙ってしまった。そうしてぼんやりと天井を見ながらほうっと息を吐いた。私はちょうど組み上った右腕を彼女に付けた。だらんと力なく弛緩していた腕はあるべき場所に戻った瞬間、何事もなかったかのように馴染んで動く。彼女はその右腕で器用に体を起こすとベッドに腰掛けた。私はカゴの中に残っている左腕のパーツを一つ一つ手に取ってベッドの上に並べ、右腕と同じように直し始めた。
彼女の体は強めの刺激を受けると関節とか、もっと脈絡のないところで取れることがある。近年、何百だか何千万人に一人同じような症状が現れるようになった。十六歳くらいの年齢の人間が発症するそれは具体的な治療法も、原因も不明だった。事実、彼女も半年くらい前に発症した。ただ一年か、或いはもっと短い時間でその症状は快復するし、再発することもないらしい。
彼女が言うには取れるときに痛みはなく、取れたパーツは感覚も不安定になるらしい。ただ、そんな風になってしまったパーツたちもくっつけていけばちゃんと元通りになる。今も彼女の指と掌、前腕と上腕とが磁石のN極とS極のように引き寄せられ、継ぎ目もなくきれいに直っていく。
「ねえ——」
私は完成した左腕を空洞になった彼女の制服の袖の所から差し込んだ。たしかな感触がして左腕が彼女の肩へと戻った。
「なんで数学の時間にこうなったの?」
「因数分解してたからかも」
彼女がそう言い終わらないうちに今付けたばかりの左腕がポロリと取れた。症状が世界的に認知されてきているとは言えやはり気味悪がられることは多い。彼女もそんなことは露ほども言わないし態度に出すこともなかったが、この半年それで随分苦労していた。
「なんか、今日はいつにも増して脆いね」
私は外れた左腕を彼女に付けなおした。彼女はしばらく両腕を何度か曲げたり伸ばしたり、肩の所で回したりしていた。
「うまくできてない?」
彼女は私の問いに被せるようにして「そんなことない」と首を振った。
「『心』なくしちゃったみたいなの」
そして「なんだか自分があやふやで」と言い終わらないうちに、重く実った果実が枝から落ちるようにして頭が取れた。私はその頭が床にまで落ちないように何とか受け止め、膝枕でもするような感じで膝の上に置いた。
膝の上の彼女はぼんやりと濁った視線で虚空を見つめている。整った顔立ちと計算されたかのように垂れる黒髪のせいで、彼女の頭はよくできた人形のようにも見えた。人形にあるまじきその重さと、目の前でゆっくりと倒れベッドに横たわる胴体がすぐに私を現実に引き戻した。
私は身を乗り出して彼女の体を抱き起し、慎重に頭を据えた。ぴたりと首と頭部がつながってからも彼女はしばらく寝起きの幼子のように私の制服のスカートの裾を握っていた。
「放課後、一緒に探しにいこ」
私がそう言うと、彼女は首が取れそうなほど頷いた。
その日一日、彼女は本当に脆かった。体育の時間にボールを受け止めようとして上半身がバラバラになり、昼休みに階段の最後の一段を踏み外して右足が外れ、終礼の前の慌ただしい教室で誰かの腕が当たって頭が取れかかったりした。私はその度に彼女を直した。本当ならこんなこと、というか体のパーツが外れてしまうことなんては一週間に一度か二度あるかどうかというところだった。
私は彼女の「『心』、なくしちゃったみたいなの」という言葉を思い返す。すこし前を歩いている彼女の髪が横風に揺れた。
「鞄、持つよ」
私は言いながら、半ば奪うようにして自分の鞄を掛けた方と逆の肩に彼女の鞄を掛けた。彼女の鞄は私のと違ってずっと重かった。
「ごめんね、ありがとう」
彼女は相変わらず無表情で、声のトーンも一定だった。
「いま、記憶しかないからこんな喋り方しかできなくて」彼女は言った。「でも私の記憶がこういうときは『ありがとう』って言えって」
私はなるべく優しく「大丈夫だよ」と言い、「気にしてないから」と付け足した。彼女はもともと感情が豊で賑やかな子だった。体が崩れたり、取れたりすることを除けば普通の子と何も変わらない。
「昨日はどうしてたっけ?」
校門を出たところで私が聞くと彼女は右手で口元を隠すようにして俯いた。首の角度が地面と平行になるにつれてその歩みが際限なく遅くなっていく。考え事をする彼女はいつもそうだ。彼女はしばらくそうして考え込んでいたがそれからぽつぽつと話し始めた。
「学校を今日と同じくらいに出て、駅前のアトレに寄った」
「なんのために?」
「ノートを買うため。それから本屋にも行ったかな」
「ふーん」私は彼女を追い越さないように半歩後ろの所で足を止めた。「行ってみよ」
「うん、途中に落ちてるかもしれないし」
彼女は顔を上げると普段通りの速度で歩き始めた。
「なんだか近くにある気がするの」
「わかるの?」
私は反射的に、肩に掛けた鞄の持ち手を強く握った。それから彼女との距離が思ったよりも離れていることに気が付いて、少し小走りに追いかけた。
「わかるよ、だって私の『心』だもん」
そう言って彼女は私の方を見て軽く首を傾げた。彼女は笑うときによくそうするが、今日は心をなくしたせいなのか真顔のままだった。
結局、駅前に着くまでに見つかることはなかった。アトレに入って文房具屋と本屋を探しても見つからなかった。彼女が店内をふらふらと探している間に私は店員に落とし物を訪ねたが、それらしいものを見た店員もいなければモノも届いていなかった。
「無いね」
「無い」
エスカレーターの鏡越しに見た彼女はまた右手で口元を覆っていた。午後四時を過ぎたアトレはまだ閑散としていて、下りのエスカレーターに乗っている人間は私達だけだった。
「昨日本屋でなにか買ったの?」私は聞いた。
「私は何も」
「うーん困ったね」
「困った、かも」
ちょうど三階についたので折り返してまたエスカレーターに乗った。私は自分の鞄を肩に掛けなおした。
「アトレの中では私崩れなかったし、落ちてるわけないか」
「そうかもね」私は答えた。
彼女は「うー」と唸って今度は天井を仰いだ。ちょうど気を付けのような姿勢のまま顔だけが六十度くらいの所を向いている。すらりとした顔のラインが一段上の私からよく見えた。
「他になにしたっけ」
「スタバに寄った」
そこで彼女はなにかに気が付いたように短く「あっ」と言い、同時に手を打った。ぱちんと乾いた音がした。
「私スタバでバラけたよ、昨日」
言い終わるや否や彼女はエスカレーターの残り二段をすっ飛ばして駆けだした。二瞬、私は呆気に取られていたが彼女の姿が見えなくなりそうなところで意識を取り戻し、その後を追った。
「すみません、私の『心』届いてませんか?」
「え?」
アトレの一階の奥、いつだって列が店外近くまで続いているはずのスタバは今日に限って何故か空いていた。椅子と机は、ほぼ満席だったのだがレジと受け取り待ちのカウンターは無人だった。いつもいるにこやかな店員は彼女を見て怪訝な顔をしている。
「『心』落としたみたいで——」
「すいません、落とし物。なんかキラキラしたやつ、昨日落としたかも知れないんですけど届いてませんか」
私は彼女と店員の間に割って入るようにしてそう尋ねた。そして少しだけ上がった息を整えながら、店員の返答を待った。
「えーと、届いてない。です」
店員同士がカウンターの向こうで顔を見合わせてから自信があるのかないのかよくわからない調子で答えた。誰もかれもの笑顔がなんとなく引きつっていた。
「無いって」私は大きく深呼吸をしてから彼女を見た。「どうする?」
振り返って見た彼女は、またいつもの動作で考え込んでいたがすぐに顔を上げた。
「じゃあキャラメルマキアートのトールサイズをホットで二つ、テイクアウトでお願いします」
彼女は必要以上に紙袋を大事そうに抱えながら歩いた。あの後「よく考えたら腕が取れちゃったくらいだからスタバで落とすわけないかー」と私の持つ彼女の鞄から財布を取り出しながら彼女は言った。
風が吹く度に彼女の持つ紙袋から甘い匂いが漂ってくる。駅前は同じ制服を着た集団がちらほら見受けられた。下校のピークは過ぎたが、まだ部活終わりとも帰宅ラッシュでもない。陽もそこそこに暖かい緩やかな時間だった。
「どこにむかってるの?」
彼女はそれまでのどこへ向かうときよりも、しっかりとした足取りで歩いていた。俯いて考え込むことも、空を仰ぐこともない。
「公園、南側の」彼女はしっかりと答えたように私は感じた。「たしかに昨日も行った」
駅の南口を出て真っすぐ二分ほど行ったところに小さな公園がある。遊具らしい遊具は無駄に真新しいブランコしかない。ほとんど広場のような公園だった。私達はベンチに腰掛けた。無駄に大きい桜の木が生えていて、ベンチの辺りは心地よい日陰になっている。私は二人の鞄をなるべくベンチの端に寄せて座り、彼女は私の隣に座るとキャラメルマキアートのカップを手渡してくれた。
「甘い」
まだ熱かったが、少し歩いている間にちょうどいい感じの熱さになっていた。クリームとキャラメルが混じった味がした。
「甘いね」
彼女もひと口飲んでからそう言った。
「記憶が甘いって言ってる」
公園では小学生くらいの子供たちが六人ほどでサッカーをやっていた。特にチームを分ける目印も、ゴールすらも無いのに一心不乱にボールを追いかけていて、なんだかよくわからない叫び声が時折聞こえてくる。
「心、戻らなかったらどうするの?」私は聞いた。
「不便だけど、生きていけるかな」
彼女はもう一度カップを煽った。私は、猫舌だからあんな風に早くは飲めない。まだほんのりと暖かいカップを両手で包みながら飲み口の細い隙間から立ち昇るキャラメルとコーヒーの匂いだけを飲んでいた。
「バラバラになっても君が直してくれるし」
彼女は私を真っすぐに見てそう言った。きっと笑ってそう言いたかったんだと思う。
「でも……困るな」彼女はベンチに深く体を沈めた。「心がないと君に好きって言えないや」
「言ってるじゃん」
「本心じゃないよ。私の記憶が『君を好きだった』って言ってるだけ」
「過去形?」
「ううん、現在進行形」
私はベンチにカップを置いて、それから立ち上がって伸びをした。まばらに散った雲がちょうど太陽の前に来たのか少しだけ辺りで暗くなった。
「『心』近くに感じる?」
「うん、どこにあるんだろうね」
彼女は軽く目を閉じた。たまにどこに行ってしまったかわからない自分のパーツを探すとき彼女はそうして目を閉じて、じっと待つ。そうするとなんとなくどこにあるのかが分かるらしかった。
私はなるべく音をたてないように彼女の鞄を持って、彼女の前の地面に置いた。そうしてから自分の鞄を肩に掛けてベンチの後ろに回る。彼女は目を閉じたまま、眠っているかのように動かなかった。電車やバスが通る重い音がして、子供たちがちょうど決着をつけたのかあちこちに放っていた自分の荷物を集め始めていた。それから昨日買ったばかりの英和辞書を出して彼女の後頭部をなるべく優しく叩いた。
木の小枝を踏んだような音がして、彼女の上半身が崩れた。両腕が、今朝と同じように頭がぐらりと揺れて外れる。頭は膝の上に一旦は収まり、それから私がさっき置いた彼女の鞄の上にゆっくりと転がり落ちて、止まった。
私は落ちてしまった彼女の腕や頭を手早くベンチの上に集めて、鞄からタオルに包んだモノを取り出した。覆っていたタオルを取り払ったそれは、手のひらにすっぽりと収まるくらいの大きさで宝石のようにきらきらと煌めいている。これが、彼女の『心』だった。
昨日も私と彼女はこの公園に来ていた。たまたま私の鞄に入っていた買ったばかりの英和辞書が鞄ごと彼女の後頭部に当たってしまい、彼女は同じようにバラバラになった。
彼女の体は確かに刺激を受けるとバラバラになることがある。でも反応する刺激はまちまちで予測がつかない。だが、後頭部を叩くことでそれを能動的に引き起こすことが出来る。これは私だけが知っていることだった。彼女が外的な刺激のせいで意識を失うほどにバラバラになるとき、それは全て後頭部に刺激を受けたときだった。
だから昨日も私は急いで直そうとした。同じように散らばった彼女を集めていた時、彼女の膝の上にキラキラとしたものが乗っていることに気が付いた。手に取ってみるとなんだか暖かくて、万華鏡のように何か絵のようなものが煌めく隙間から見えた。私は直感的にそれが彼女の『心』なのだと思った。
途端にそれが欲しくなってしまった。
理由はわからない。風が吹き抜けるよりも早く、ただ咄嗟に私は彼女の『心』を隠してしまった。そして『心』を戻さないでも体を組みなおした彼女は元通り動き出した。
それでも結局は、耐えられなくなった。彼女に「好きだ」と言われたからではない。ただそんな状況に耐えられなくなっただけだ。私は彼女の制服を裾から少しだけ捲った。上半身もところどころ外れている。その中で一か所、ちょうど胸部の心臓の辺りに穴が開いている。私はカラカラと音をたてる彼女のパーツを一つずつはめ込んだ。そして持っていた『心』を穴に埋め込み、最後に残った胸部のパーツを戻し、それでずれてしまったインナーやらも戻した。それから何度もそうしたように腕を二本元通りに付けて、彼女の頭を持ち上げた。眠るように目を閉じたままの頭部に自分の頭の前頭葉をそっと合わせた。生きている熱が髪と皮膚越しに確かに伝わる。私は彼女の首に頭を据えた。
「んあっ」
二分ほどして彼女は突然目を覚ました。そうしてきょろきょろと辺りを見回すと、私の手からまだ半分ほど残っていたキャラメルマキアートを奪い一気に飲み干した。
「おはよう」私は視線だけを彼女の方へ向けた。
「私、ばらけてた?」
彼女は大きく息を吐いてからそう言った。気を付けたつもりだった。が、強く叩きすぎたのか、後頭部をさすりながら多少顔をしかめている。
「うん」私は公園をぐるりと見た。「サッカーしてる子供のボールが直撃した」
公園にいるのは私達だけだった。
「子供らは?」
「バラバラになるの見てビビって逃げた」
彼女はクスクスと笑ってからすこしだけ私の方に近付いた。
「返してくれたんだ」
「うん——」私は観念して苦笑いを返した。「知ってたかぁ」
「だって私の『心』だよ」
彼女はわざとらしく無表情で、抑揚のない声でそう言った。それからいつもの調子に戻って首を傾げたままニコニコと「君と何年一緒に居ると思ってるの?」言った。
「怒った?」
「別に」彼女は飲み干したカップを軽く振りながら答えた。「まあ私が君の立場でも同じことするし」
それからハッとしたように、ほとんどベンチの端の落ちそうなところにまで離れていって体を隠すように鞄を持った。
「なんで逃げるの」私は聞いた。
「私さっきとんでもないこと言ったよね」
「どっちのこと?」
「どっちも!」食い気味に言った彼女はわたわたと足をばたつかせた。
「あー言ってたかもね」
彼女はやってしまった、という表情をして大げさに項垂れて、ひとしきり何か言ってから私を見た。そのまま随分時間が経ったと思う。
「それで、返事は?」
「今度ね。ちゃんと言ってくれた時に」
私はそう言って、紙袋に空になったカップを放り込んだ。
「そしたら私もちゃんと理由話せるようにするから」
彼女はベンチの真ん中ほどに戻って来た。そうして私が差し出した紙袋に同じように空になったカップを投げ込んだ。袋の中で、分離したプラスチックの蓋と紙カップ同士がぶつかって軽い音がする。その日を最後に、彼女がバラバラになる日は二度と訪れなかった。
それは小さな音だったが、それでも二限の数学の授業中になる音にしては大きすぎた。幾人かのクラスメートが振り返ったり、横目に流すようにしたりして彼女と私の方を見た。私は数式を書いていたペンを置いて、椅子を軽く引きながら彼女の方へと身を乗り出した。指先、手首、前腕と順にバラバラと取れていく彼女は机に顔がついてしまいそうなほど前のめりになっていてその顔はどこも見ていない。そうしているうちに彼女の左上腕が外れて、少し大げさに床へと落ちた。
「大丈夫?」
そう言いながら私はたった今床に落ちた彼女の左上腕を拾いあげて渡そうとした。が今度は右の上腕が外れた。
「大丈夫?」
私はもう一度彼女に問いかけた。彼女は随分間をあけてからゆっくりと視線だけを私の方へ向けると「あ」とだけ言い、同時にぐらりと揺れてその頭が外れた。どこの席からか、息を呑み、悲鳴を殺したような音がする。私は少しだけ開いた自分の鞄の中を、それから黒板の上方に掛けられている時計を見た。授業時間はまだ半分ほど残っていた。
「ごめんね、いつも」
ベッドの上、首を据えられた彼女は天井を向いたまま抑揚のない声でそう言った。あの後、私は彼女の頭を、先生がカゴに入れた彼女の腕と首から上と両腕の取れた体を持って三階から一階の保健室まで運んだ。虚無な表情だった彼女は、私がその頭を抱きかかえると眠るように目を閉じた。三階から一段一段と階段降りる時、先生の持っているカゴと彼女の体からはプラスチックのブロックをぶつけたような軽い音がしていた。
「私、一旦教室に戻るけど」
「彼女を直して、一緒に戻ります」
「ごめんなさい。お願いね」
先生は不安そうな、心配そうな表情で保健室を出て行った。彼女がバラバラになることを気持ち悪がったり、揶揄ったりする連中の方が多い中、先生は上辺だけではなく本当に心配してくれていると思う。そう思いながら私は、ところどころ外れている足のパーツを直してから彼女の頭を戻してやった。
「数学って——」
彼女はそう言ってから、言葉を探すように黙ってしまった。そうしてぼんやりと天井を見ながらほうっと息を吐いた。私はちょうど組み上った右腕を彼女に付けた。だらんと力なく弛緩していた腕はあるべき場所に戻った瞬間、何事もなかったかのように馴染んで動く。彼女はその右腕で器用に体を起こすとベッドに腰掛けた。私はカゴの中に残っている左腕のパーツを一つ一つ手に取ってベッドの上に並べ、右腕と同じように直し始めた。
彼女の体は強めの刺激を受けると関節とか、もっと脈絡のないところで取れることがある。近年、何百だか何千万人に一人同じような症状が現れるようになった。十六歳くらいの年齢の人間が発症するそれは具体的な治療法も、原因も不明だった。事実、彼女も半年くらい前に発症した。ただ一年か、或いはもっと短い時間でその症状は快復するし、再発することもないらしい。
彼女が言うには取れるときに痛みはなく、取れたパーツは感覚も不安定になるらしい。ただ、そんな風になってしまったパーツたちもくっつけていけばちゃんと元通りになる。今も彼女の指と掌、前腕と上腕とが磁石のN極とS極のように引き寄せられ、継ぎ目もなくきれいに直っていく。
「ねえ——」
私は完成した左腕を空洞になった彼女の制服の袖の所から差し込んだ。たしかな感触がして左腕が彼女の肩へと戻った。
「なんで数学の時間にこうなったの?」
「因数分解してたからかも」
彼女がそう言い終わらないうちに今付けたばかりの左腕がポロリと取れた。症状が世界的に認知されてきているとは言えやはり気味悪がられることは多い。彼女もそんなことは露ほども言わないし態度に出すこともなかったが、この半年それで随分苦労していた。
「なんか、今日はいつにも増して脆いね」
私は外れた左腕を彼女に付けなおした。彼女はしばらく両腕を何度か曲げたり伸ばしたり、肩の所で回したりしていた。
「うまくできてない?」
彼女は私の問いに被せるようにして「そんなことない」と首を振った。
「『心』なくしちゃったみたいなの」
そして「なんだか自分があやふやで」と言い終わらないうちに、重く実った果実が枝から落ちるようにして頭が取れた。私はその頭が床にまで落ちないように何とか受け止め、膝枕でもするような感じで膝の上に置いた。
膝の上の彼女はぼんやりと濁った視線で虚空を見つめている。整った顔立ちと計算されたかのように垂れる黒髪のせいで、彼女の頭はよくできた人形のようにも見えた。人形にあるまじきその重さと、目の前でゆっくりと倒れベッドに横たわる胴体がすぐに私を現実に引き戻した。
私は身を乗り出して彼女の体を抱き起し、慎重に頭を据えた。ぴたりと首と頭部がつながってからも彼女はしばらく寝起きの幼子のように私の制服のスカートの裾を握っていた。
「放課後、一緒に探しにいこ」
私がそう言うと、彼女は首が取れそうなほど頷いた。
その日一日、彼女は本当に脆かった。体育の時間にボールを受け止めようとして上半身がバラバラになり、昼休みに階段の最後の一段を踏み外して右足が外れ、終礼の前の慌ただしい教室で誰かの腕が当たって頭が取れかかったりした。私はその度に彼女を直した。本当ならこんなこと、というか体のパーツが外れてしまうことなんては一週間に一度か二度あるかどうかというところだった。
私は彼女の「『心』、なくしちゃったみたいなの」という言葉を思い返す。すこし前を歩いている彼女の髪が横風に揺れた。
「鞄、持つよ」
私は言いながら、半ば奪うようにして自分の鞄を掛けた方と逆の肩に彼女の鞄を掛けた。彼女の鞄は私のと違ってずっと重かった。
「ごめんね、ありがとう」
彼女は相変わらず無表情で、声のトーンも一定だった。
「いま、記憶しかないからこんな喋り方しかできなくて」彼女は言った。「でも私の記憶がこういうときは『ありがとう』って言えって」
私はなるべく優しく「大丈夫だよ」と言い、「気にしてないから」と付け足した。彼女はもともと感情が豊で賑やかな子だった。体が崩れたり、取れたりすることを除けば普通の子と何も変わらない。
「昨日はどうしてたっけ?」
校門を出たところで私が聞くと彼女は右手で口元を隠すようにして俯いた。首の角度が地面と平行になるにつれてその歩みが際限なく遅くなっていく。考え事をする彼女はいつもそうだ。彼女はしばらくそうして考え込んでいたがそれからぽつぽつと話し始めた。
「学校を今日と同じくらいに出て、駅前のアトレに寄った」
「なんのために?」
「ノートを買うため。それから本屋にも行ったかな」
「ふーん」私は彼女を追い越さないように半歩後ろの所で足を止めた。「行ってみよ」
「うん、途中に落ちてるかもしれないし」
彼女は顔を上げると普段通りの速度で歩き始めた。
「なんだか近くにある気がするの」
「わかるの?」
私は反射的に、肩に掛けた鞄の持ち手を強く握った。それから彼女との距離が思ったよりも離れていることに気が付いて、少し小走りに追いかけた。
「わかるよ、だって私の『心』だもん」
そう言って彼女は私の方を見て軽く首を傾げた。彼女は笑うときによくそうするが、今日は心をなくしたせいなのか真顔のままだった。
結局、駅前に着くまでに見つかることはなかった。アトレに入って文房具屋と本屋を探しても見つからなかった。彼女が店内をふらふらと探している間に私は店員に落とし物を訪ねたが、それらしいものを見た店員もいなければモノも届いていなかった。
「無いね」
「無い」
エスカレーターの鏡越しに見た彼女はまた右手で口元を覆っていた。午後四時を過ぎたアトレはまだ閑散としていて、下りのエスカレーターに乗っている人間は私達だけだった。
「昨日本屋でなにか買ったの?」私は聞いた。
「私は何も」
「うーん困ったね」
「困った、かも」
ちょうど三階についたので折り返してまたエスカレーターに乗った。私は自分の鞄を肩に掛けなおした。
「アトレの中では私崩れなかったし、落ちてるわけないか」
「そうかもね」私は答えた。
彼女は「うー」と唸って今度は天井を仰いだ。ちょうど気を付けのような姿勢のまま顔だけが六十度くらいの所を向いている。すらりとした顔のラインが一段上の私からよく見えた。
「他になにしたっけ」
「スタバに寄った」
そこで彼女はなにかに気が付いたように短く「あっ」と言い、同時に手を打った。ぱちんと乾いた音がした。
「私スタバでバラけたよ、昨日」
言い終わるや否や彼女はエスカレーターの残り二段をすっ飛ばして駆けだした。二瞬、私は呆気に取られていたが彼女の姿が見えなくなりそうなところで意識を取り戻し、その後を追った。
「すみません、私の『心』届いてませんか?」
「え?」
アトレの一階の奥、いつだって列が店外近くまで続いているはずのスタバは今日に限って何故か空いていた。椅子と机は、ほぼ満席だったのだがレジと受け取り待ちのカウンターは無人だった。いつもいるにこやかな店員は彼女を見て怪訝な顔をしている。
「『心』落としたみたいで——」
「すいません、落とし物。なんかキラキラしたやつ、昨日落としたかも知れないんですけど届いてませんか」
私は彼女と店員の間に割って入るようにしてそう尋ねた。そして少しだけ上がった息を整えながら、店員の返答を待った。
「えーと、届いてない。です」
店員同士がカウンターの向こうで顔を見合わせてから自信があるのかないのかよくわからない調子で答えた。誰もかれもの笑顔がなんとなく引きつっていた。
「無いって」私は大きく深呼吸をしてから彼女を見た。「どうする?」
振り返って見た彼女は、またいつもの動作で考え込んでいたがすぐに顔を上げた。
「じゃあキャラメルマキアートのトールサイズをホットで二つ、テイクアウトでお願いします」
彼女は必要以上に紙袋を大事そうに抱えながら歩いた。あの後「よく考えたら腕が取れちゃったくらいだからスタバで落とすわけないかー」と私の持つ彼女の鞄から財布を取り出しながら彼女は言った。
風が吹く度に彼女の持つ紙袋から甘い匂いが漂ってくる。駅前は同じ制服を着た集団がちらほら見受けられた。下校のピークは過ぎたが、まだ部活終わりとも帰宅ラッシュでもない。陽もそこそこに暖かい緩やかな時間だった。
「どこにむかってるの?」
彼女はそれまでのどこへ向かうときよりも、しっかりとした足取りで歩いていた。俯いて考え込むことも、空を仰ぐこともない。
「公園、南側の」彼女はしっかりと答えたように私は感じた。「たしかに昨日も行った」
駅の南口を出て真っすぐ二分ほど行ったところに小さな公園がある。遊具らしい遊具は無駄に真新しいブランコしかない。ほとんど広場のような公園だった。私達はベンチに腰掛けた。無駄に大きい桜の木が生えていて、ベンチの辺りは心地よい日陰になっている。私は二人の鞄をなるべくベンチの端に寄せて座り、彼女は私の隣に座るとキャラメルマキアートのカップを手渡してくれた。
「甘い」
まだ熱かったが、少し歩いている間にちょうどいい感じの熱さになっていた。クリームとキャラメルが混じった味がした。
「甘いね」
彼女もひと口飲んでからそう言った。
「記憶が甘いって言ってる」
公園では小学生くらいの子供たちが六人ほどでサッカーをやっていた。特にチームを分ける目印も、ゴールすらも無いのに一心不乱にボールを追いかけていて、なんだかよくわからない叫び声が時折聞こえてくる。
「心、戻らなかったらどうするの?」私は聞いた。
「不便だけど、生きていけるかな」
彼女はもう一度カップを煽った。私は、猫舌だからあんな風に早くは飲めない。まだほんのりと暖かいカップを両手で包みながら飲み口の細い隙間から立ち昇るキャラメルとコーヒーの匂いだけを飲んでいた。
「バラバラになっても君が直してくれるし」
彼女は私を真っすぐに見てそう言った。きっと笑ってそう言いたかったんだと思う。
「でも……困るな」彼女はベンチに深く体を沈めた。「心がないと君に好きって言えないや」
「言ってるじゃん」
「本心じゃないよ。私の記憶が『君を好きだった』って言ってるだけ」
「過去形?」
「ううん、現在進行形」
私はベンチにカップを置いて、それから立ち上がって伸びをした。まばらに散った雲がちょうど太陽の前に来たのか少しだけ辺りで暗くなった。
「『心』近くに感じる?」
「うん、どこにあるんだろうね」
彼女は軽く目を閉じた。たまにどこに行ってしまったかわからない自分のパーツを探すとき彼女はそうして目を閉じて、じっと待つ。そうするとなんとなくどこにあるのかが分かるらしかった。
私はなるべく音をたてないように彼女の鞄を持って、彼女の前の地面に置いた。そうしてから自分の鞄を肩に掛けてベンチの後ろに回る。彼女は目を閉じたまま、眠っているかのように動かなかった。電車やバスが通る重い音がして、子供たちがちょうど決着をつけたのかあちこちに放っていた自分の荷物を集め始めていた。それから昨日買ったばかりの英和辞書を出して彼女の後頭部をなるべく優しく叩いた。
木の小枝を踏んだような音がして、彼女の上半身が崩れた。両腕が、今朝と同じように頭がぐらりと揺れて外れる。頭は膝の上に一旦は収まり、それから私がさっき置いた彼女の鞄の上にゆっくりと転がり落ちて、止まった。
私は落ちてしまった彼女の腕や頭を手早くベンチの上に集めて、鞄からタオルに包んだモノを取り出した。覆っていたタオルを取り払ったそれは、手のひらにすっぽりと収まるくらいの大きさで宝石のようにきらきらと煌めいている。これが、彼女の『心』だった。
昨日も私と彼女はこの公園に来ていた。たまたま私の鞄に入っていた買ったばかりの英和辞書が鞄ごと彼女の後頭部に当たってしまい、彼女は同じようにバラバラになった。
彼女の体は確かに刺激を受けるとバラバラになることがある。でも反応する刺激はまちまちで予測がつかない。だが、後頭部を叩くことでそれを能動的に引き起こすことが出来る。これは私だけが知っていることだった。彼女が外的な刺激のせいで意識を失うほどにバラバラになるとき、それは全て後頭部に刺激を受けたときだった。
だから昨日も私は急いで直そうとした。同じように散らばった彼女を集めていた時、彼女の膝の上にキラキラとしたものが乗っていることに気が付いた。手に取ってみるとなんだか暖かくて、万華鏡のように何か絵のようなものが煌めく隙間から見えた。私は直感的にそれが彼女の『心』なのだと思った。
途端にそれが欲しくなってしまった。
理由はわからない。風が吹き抜けるよりも早く、ただ咄嗟に私は彼女の『心』を隠してしまった。そして『心』を戻さないでも体を組みなおした彼女は元通り動き出した。
それでも結局は、耐えられなくなった。彼女に「好きだ」と言われたからではない。ただそんな状況に耐えられなくなっただけだ。私は彼女の制服を裾から少しだけ捲った。上半身もところどころ外れている。その中で一か所、ちょうど胸部の心臓の辺りに穴が開いている。私はカラカラと音をたてる彼女のパーツを一つずつはめ込んだ。そして持っていた『心』を穴に埋め込み、最後に残った胸部のパーツを戻し、それでずれてしまったインナーやらも戻した。それから何度もそうしたように腕を二本元通りに付けて、彼女の頭を持ち上げた。眠るように目を閉じたままの頭部に自分の頭の前頭葉をそっと合わせた。生きている熱が髪と皮膚越しに確かに伝わる。私は彼女の首に頭を据えた。
「んあっ」
二分ほどして彼女は突然目を覚ました。そうしてきょろきょろと辺りを見回すと、私の手からまだ半分ほど残っていたキャラメルマキアートを奪い一気に飲み干した。
「おはよう」私は視線だけを彼女の方へ向けた。
「私、ばらけてた?」
彼女は大きく息を吐いてからそう言った。気を付けたつもりだった。が、強く叩きすぎたのか、後頭部をさすりながら多少顔をしかめている。
「うん」私は公園をぐるりと見た。「サッカーしてる子供のボールが直撃した」
公園にいるのは私達だけだった。
「子供らは?」
「バラバラになるの見てビビって逃げた」
彼女はクスクスと笑ってからすこしだけ私の方に近付いた。
「返してくれたんだ」
「うん——」私は観念して苦笑いを返した。「知ってたかぁ」
「だって私の『心』だよ」
彼女はわざとらしく無表情で、抑揚のない声でそう言った。それからいつもの調子に戻って首を傾げたままニコニコと「君と何年一緒に居ると思ってるの?」言った。
「怒った?」
「別に」彼女は飲み干したカップを軽く振りながら答えた。「まあ私が君の立場でも同じことするし」
それからハッとしたように、ほとんどベンチの端の落ちそうなところにまで離れていって体を隠すように鞄を持った。
「なんで逃げるの」私は聞いた。
「私さっきとんでもないこと言ったよね」
「どっちのこと?」
「どっちも!」食い気味に言った彼女はわたわたと足をばたつかせた。
「あー言ってたかもね」
彼女はやってしまった、という表情をして大げさに項垂れて、ひとしきり何か言ってから私を見た。そのまま随分時間が経ったと思う。
「それで、返事は?」
「今度ね。ちゃんと言ってくれた時に」
私はそう言って、紙袋に空になったカップを放り込んだ。
「そしたら私もちゃんと理由話せるようにするから」
彼女はベンチの真ん中ほどに戻って来た。そうして私が差し出した紙袋に同じように空になったカップを投げ込んだ。袋の中で、分離したプラスチックの蓋と紙カップ同士がぶつかって軽い音がする。その日を最後に、彼女がバラバラになる日は二度と訪れなかった。