今日の面接で、十社目。明後日の分も合わせたら十一社。晴れて落ちこぼれ組の仲間入りである。嗚呼、神様が、大学の同胞たちを連れてどこかへ行ってしまう姿が見えてくる。私だって、好きでこんなことになってるわけじゃないのに。寒空の下、口からこぼれそうな社会への愚痴をギリギリで押し殺しつつ、ふらふらと実家へと向かう。ここは東京でも郊外の方だから、ちらほらと、現役バリバリの田んぼや畑が姿を現し、過ぎてゆく。
ただでさえ疲れた足に、慣れないヒールが追い打ちを決め込んでいる。かれこれもう六月半ば。本当に焦らないと、実家で無職彼氏なしニートとして、親のすねを骨の髄までかじりつくすことになる。とうとう幼馴染にも顔向けできなくなってくる頃だ。四日前に受けた会社から、採用メールが来ることを切に願う。
この時期。昼は過ごしやすいのに、夕方から肌寒くなる。シャツの中にヒートテックを一枚着ておけばよかった。それじゃあ暑いか? まあいいや。近くの公園から、五時半を知らせる音楽が聞こえる。いろんなところに音が反響して、いったい何の曲が流れているかなんて、わからない。上を見上げれば、オレンジ色の空に、ふわふわと暗い色の雲が浮かんでいる。あの雲と一緒に空を飛べたら、気分も晴れるだろうな。そんなことを考えつつ、歩いていた川沿いの道を曲がり、田んぼに挟まれた一本道へと足を進ませた。
長く続く道の右端に、何か見える。……屋台? 黄色い明りがぽっとついていて、赤い提灯がぶら下がっている。おでんか何かかな。そんなに車通りが多い道ではないから、邪魔なんてことはなさそうだ。不意に、おなかが鳴った。そういえば、昼から何も食べていない。面接に遅れそうだったからだ。屋台を見ただけだというのに、おなかが鳴るなんて、相当なものだな。
だんだんと、提灯の文字が鮮明になってきた。
『うどん』
じゅるり。こりゃたまりませんな。お母さん、今日は夜ご飯いりません。勝手な娘でごめんね。寒い日に屋台で食べる温かいものほど、人間の幸福度を底上げするものなど、世界中どこを探してもないだろう。あったとしても、せいぜい金と欲にまみれた汚いものなはずだ。
ふわっと香るだしの匂いに、靴擦れの痛みを忘れた私は、年季の入った暖簾をくぐった。
「すみません、やってますか?」
中には、いかにもな雰囲気を漂わせる職人風の御主人。半袖が寒そう。
「ええ、やってますよお嬢さん」
口調もドンピシャ。いいお店を見つけちゃった。席は、ぎしぎしと音を立てるパイプ椅子が四席。暖簾の中は、鍋からあふれ出る湯気が充満していて、ご主人の後ろに広がる田んぼが霞がかって見える。テーブルの下は狭くて、冷えた膝がごつんと当たる。でも、ちょうどいい高さに気の出っ張りがあるから、足は休まりそうだ。
「なににしますか。定番はかけだよ。かけうどん。それから、人気なのはきつねかな。甘いお揚げが入ってる」
うわー! 悩ましい! 見上げると、ご主人の頭上にはメニューが連なってぶら下がっている。かけ、きつね、たぬき、にく、たまご、あつあげ。二食限定のちくわうどんなんかもある。でもやっぱり、ここはおだしのお味を存分に。
「かけでお願いします」
「はいよぉ!」
威勢のいい声が響く。下から取り出したうどんの麺を、熟練の手さばきで鍋へと放り込む。お湯の沸騰が一瞬止んだかと思えば、今度は麺を躍らせながら、ぶくぶくと泡を浮かばせ始める。もう、眺めているだけで癒されちゃうなぁ。
「しかし、冷えるねぇ今日は。なんだい、就活中かい?」
不意にご主人から飛び出した質問に、一瞬身構える。まぁ妥当な質問だろうな。見るからにそうだし。
「はい、そんなところです。なんか、全然うまくいかなくて。あはは」
「そりゃ大変だなぁ。おらぁ高校卒業してすぐオヤジの会社継いじまったからよぉ。ごめんなぁ、なんか、助言の一つでもしてやれればよかったんだがなぁ」
「いえ、大丈夫です。私、こう見えて粘り強い方なんで!」
「おっ、そりゃ頼もしいなぁ。がんばっちょくれよ」
「はい!」
こうやってあったかい言葉をかけてくれる人がいるだけで、いつもより数段頑張っていける気がする。あとは、あったかいうどんが待ち遠しい。時折、冷たい風がびゅうっと暖簾を揺らしてゆく。風たちもお腹がすいているのかもしれない。
「はい、おまちぃ! かけうどん一丁!」
目の前に、ドンと音を立ててどんぶりが置かれる。待ちに待った、かけうどん。かすれた模様の入った器の中に、きらきらと黄金色に輝くおつゆ。そこから漂う匂いは一級品。どの国の大統領も、この匂いを嗅げば争いなんてやめにするだろう。具は、ねぎとおろし生姜が少し。
ずっしりとしたどんぶりを持ち上げると、ゆらゆらと面が揺れる。黄色の明かりが反射して、本当に黄金みたいだ。どんぶりを少し傾けて、絶えず湯気が立ち上るおつゆを、一口すする。
うわぁ。ほんとにおいしい。なにこれ。
しょっぱいおつゆが口いっぱいに広がり、後からおだしの風味が鼻を抜けていく。百年継ぎ足された秘伝のおだしと言われても、信じちゃいそうな程だ。そんなの本当にあるのかも知らないけど。お次は、麺。どんぶりを木のテーブルに置いて、前の箱から割り箸を一本取り出す。慎重に割り箸を割ると、乾いた木の気持ちの良い音とともに、それはそれは綺麗に真っ二つに割れた。なかなかのセンス。もしも割り箸を綺麗に割る大会があったら今度出てみよう。
あったかいおつゆに浸かるうどんの麺はまるで、銭湯の湯に浸かるご老人。貫禄すら感じてしまう。明かりを反射して、おつゆ同様、きらきらとその美しさを露呈している。
落とさぬよう、若干慎重に挟み、ゆっくりと持ち上げる。ひとたびおつゆから出ればそれは、天翔ける竜そのもの。口元に持ってくると、これまたいい香り。うっとりしちゃうわ。よく絡んだおつゆが滴り落ちる前に、勢いよくすする。静かな屋台にそのだけが響く。女の子なんだから、もっとお行儀よく食べなさい、というおじ様おば様の声は却下。こんなところでそんなことは気にしていられない。白くもっちりとした麺をほおばる。噛むと、小麦のいい香りとおだしのハーモニーが、口いっぱいに広がる。生き返るなぁ。 これは正真正銘、世界一おいしいうどんだ。間違いない。きっと、天皇陛下も御用達のはず。
「いい顔するねぇ、お嬢さん」
幸せそうにうどんを頬張る私を見て、ご主人も満面の笑みを浮かべている。私もニコッと笑って見せて、「最高です」という意思を伝える。体が、内側から暖かくなってくるのを感じる。
そのとき、私の携帯が震えた。メールだった。件名には、「面接試験の結果について」の文字。私が四日前に受けた会社だろう。すぐさま、目をぐるぐるとさせて画面を操作する。一瞬、目の前の絶品うどんの事を忘れる。
『先日は弊社の採用最終選考にお越しいただき誠にありがとうございました。厳正な選考の結果、佐々木様は最終選考に合格されましたのでお知らせいたします。』
合格……。最高のタイミング。ずっとずっと待ちわびていた。これでやっと私は、社会人として胸を張っていける。お母さんの喜ぶ顔が見れる。こんなお堅いヒールも、履かなくて済む。
顔を上げると、ご主人は察したように、「おめでとう」と一言私に言った。やけに湯気で視界が悪いなと思ったが、それは、目に溜まる涙だった。
涙を手でぬぐいながら、私はうどんをすすった。おいしい。おいしい。おいしい。一生忘れない一杯だろうな、と思いながら、おつゆを飲み干した。
辺りはもう暗くって、家々からは明かりが漏れている。そろそろお会計にしよう。ええと、財布は……。
「いいよぉ、お代は。お祝いだ、お祝い。それに、あんなに幸せそうに食べてくれる人はそういないからね」
「え! いいんですか! じゃあお言葉に甘えさせていただきます」
なんて優しい人なんだろう。もう、心も体もぽかぽかである。
ご主人とはすっかり打ち解けて、去り際には手を振った。離れてから振り返ると、二人組のサラリーマンが、暖簾をくぐっているのが見える。きっと常連さんだ。私も、社会人になったらまた来たいな。ちゃんと社会人になれましたって、伝えるんだ。
心地いい夜風が頬を撫でる。体が冷える前に家に着きたい。そう思うと、自然と足が速まった。
ただでさえ疲れた足に、慣れないヒールが追い打ちを決め込んでいる。かれこれもう六月半ば。本当に焦らないと、実家で無職彼氏なしニートとして、親のすねを骨の髄までかじりつくすことになる。とうとう幼馴染にも顔向けできなくなってくる頃だ。四日前に受けた会社から、採用メールが来ることを切に願う。
この時期。昼は過ごしやすいのに、夕方から肌寒くなる。シャツの中にヒートテックを一枚着ておけばよかった。それじゃあ暑いか? まあいいや。近くの公園から、五時半を知らせる音楽が聞こえる。いろんなところに音が反響して、いったい何の曲が流れているかなんて、わからない。上を見上げれば、オレンジ色の空に、ふわふわと暗い色の雲が浮かんでいる。あの雲と一緒に空を飛べたら、気分も晴れるだろうな。そんなことを考えつつ、歩いていた川沿いの道を曲がり、田んぼに挟まれた一本道へと足を進ませた。
長く続く道の右端に、何か見える。……屋台? 黄色い明りがぽっとついていて、赤い提灯がぶら下がっている。おでんか何かかな。そんなに車通りが多い道ではないから、邪魔なんてことはなさそうだ。不意に、おなかが鳴った。そういえば、昼から何も食べていない。面接に遅れそうだったからだ。屋台を見ただけだというのに、おなかが鳴るなんて、相当なものだな。
だんだんと、提灯の文字が鮮明になってきた。
『うどん』
じゅるり。こりゃたまりませんな。お母さん、今日は夜ご飯いりません。勝手な娘でごめんね。寒い日に屋台で食べる温かいものほど、人間の幸福度を底上げするものなど、世界中どこを探してもないだろう。あったとしても、せいぜい金と欲にまみれた汚いものなはずだ。
ふわっと香るだしの匂いに、靴擦れの痛みを忘れた私は、年季の入った暖簾をくぐった。
「すみません、やってますか?」
中には、いかにもな雰囲気を漂わせる職人風の御主人。半袖が寒そう。
「ええ、やってますよお嬢さん」
口調もドンピシャ。いいお店を見つけちゃった。席は、ぎしぎしと音を立てるパイプ椅子が四席。暖簾の中は、鍋からあふれ出る湯気が充満していて、ご主人の後ろに広がる田んぼが霞がかって見える。テーブルの下は狭くて、冷えた膝がごつんと当たる。でも、ちょうどいい高さに気の出っ張りがあるから、足は休まりそうだ。
「なににしますか。定番はかけだよ。かけうどん。それから、人気なのはきつねかな。甘いお揚げが入ってる」
うわー! 悩ましい! 見上げると、ご主人の頭上にはメニューが連なってぶら下がっている。かけ、きつね、たぬき、にく、たまご、あつあげ。二食限定のちくわうどんなんかもある。でもやっぱり、ここはおだしのお味を存分に。
「かけでお願いします」
「はいよぉ!」
威勢のいい声が響く。下から取り出したうどんの麺を、熟練の手さばきで鍋へと放り込む。お湯の沸騰が一瞬止んだかと思えば、今度は麺を躍らせながら、ぶくぶくと泡を浮かばせ始める。もう、眺めているだけで癒されちゃうなぁ。
「しかし、冷えるねぇ今日は。なんだい、就活中かい?」
不意にご主人から飛び出した質問に、一瞬身構える。まぁ妥当な質問だろうな。見るからにそうだし。
「はい、そんなところです。なんか、全然うまくいかなくて。あはは」
「そりゃ大変だなぁ。おらぁ高校卒業してすぐオヤジの会社継いじまったからよぉ。ごめんなぁ、なんか、助言の一つでもしてやれればよかったんだがなぁ」
「いえ、大丈夫です。私、こう見えて粘り強い方なんで!」
「おっ、そりゃ頼もしいなぁ。がんばっちょくれよ」
「はい!」
こうやってあったかい言葉をかけてくれる人がいるだけで、いつもより数段頑張っていける気がする。あとは、あったかいうどんが待ち遠しい。時折、冷たい風がびゅうっと暖簾を揺らしてゆく。風たちもお腹がすいているのかもしれない。
「はい、おまちぃ! かけうどん一丁!」
目の前に、ドンと音を立ててどんぶりが置かれる。待ちに待った、かけうどん。かすれた模様の入った器の中に、きらきらと黄金色に輝くおつゆ。そこから漂う匂いは一級品。どの国の大統領も、この匂いを嗅げば争いなんてやめにするだろう。具は、ねぎとおろし生姜が少し。
ずっしりとしたどんぶりを持ち上げると、ゆらゆらと面が揺れる。黄色の明かりが反射して、本当に黄金みたいだ。どんぶりを少し傾けて、絶えず湯気が立ち上るおつゆを、一口すする。
うわぁ。ほんとにおいしい。なにこれ。
しょっぱいおつゆが口いっぱいに広がり、後からおだしの風味が鼻を抜けていく。百年継ぎ足された秘伝のおだしと言われても、信じちゃいそうな程だ。そんなの本当にあるのかも知らないけど。お次は、麺。どんぶりを木のテーブルに置いて、前の箱から割り箸を一本取り出す。慎重に割り箸を割ると、乾いた木の気持ちの良い音とともに、それはそれは綺麗に真っ二つに割れた。なかなかのセンス。もしも割り箸を綺麗に割る大会があったら今度出てみよう。
あったかいおつゆに浸かるうどんの麺はまるで、銭湯の湯に浸かるご老人。貫禄すら感じてしまう。明かりを反射して、おつゆ同様、きらきらとその美しさを露呈している。
落とさぬよう、若干慎重に挟み、ゆっくりと持ち上げる。ひとたびおつゆから出ればそれは、天翔ける竜そのもの。口元に持ってくると、これまたいい香り。うっとりしちゃうわ。よく絡んだおつゆが滴り落ちる前に、勢いよくすする。静かな屋台にそのだけが響く。女の子なんだから、もっとお行儀よく食べなさい、というおじ様おば様の声は却下。こんなところでそんなことは気にしていられない。白くもっちりとした麺をほおばる。噛むと、小麦のいい香りとおだしのハーモニーが、口いっぱいに広がる。生き返るなぁ。 これは正真正銘、世界一おいしいうどんだ。間違いない。きっと、天皇陛下も御用達のはず。
「いい顔するねぇ、お嬢さん」
幸せそうにうどんを頬張る私を見て、ご主人も満面の笑みを浮かべている。私もニコッと笑って見せて、「最高です」という意思を伝える。体が、内側から暖かくなってくるのを感じる。
そのとき、私の携帯が震えた。メールだった。件名には、「面接試験の結果について」の文字。私が四日前に受けた会社だろう。すぐさま、目をぐるぐるとさせて画面を操作する。一瞬、目の前の絶品うどんの事を忘れる。
『先日は弊社の採用最終選考にお越しいただき誠にありがとうございました。厳正な選考の結果、佐々木様は最終選考に合格されましたのでお知らせいたします。』
合格……。最高のタイミング。ずっとずっと待ちわびていた。これでやっと私は、社会人として胸を張っていける。お母さんの喜ぶ顔が見れる。こんなお堅いヒールも、履かなくて済む。
顔を上げると、ご主人は察したように、「おめでとう」と一言私に言った。やけに湯気で視界が悪いなと思ったが、それは、目に溜まる涙だった。
涙を手でぬぐいながら、私はうどんをすすった。おいしい。おいしい。おいしい。一生忘れない一杯だろうな、と思いながら、おつゆを飲み干した。
辺りはもう暗くって、家々からは明かりが漏れている。そろそろお会計にしよう。ええと、財布は……。
「いいよぉ、お代は。お祝いだ、お祝い。それに、あんなに幸せそうに食べてくれる人はそういないからね」
「え! いいんですか! じゃあお言葉に甘えさせていただきます」
なんて優しい人なんだろう。もう、心も体もぽかぽかである。
ご主人とはすっかり打ち解けて、去り際には手を振った。離れてから振り返ると、二人組のサラリーマンが、暖簾をくぐっているのが見える。きっと常連さんだ。私も、社会人になったらまた来たいな。ちゃんと社会人になれましたって、伝えるんだ。
心地いい夜風が頬を撫でる。体が冷える前に家に着きたい。そう思うと、自然と足が速まった。