1
「ねぇねぇ、ツムギはさ、世界が元に戻ったら何したい?」
釣り糸を引き上げる手を一旦止めて、ヒカリは私の方を向いていた。もともと大きく丸い瞳を一層輝かせて、興味津々といった表情だ。
「うーんそうだなぁ……あんまり思いつかないし、世界が元に戻るとは思はないけど、ヒカリと一緒にいられれば、なんでもいいかな」
「おっ! 嬉しいこと言ってくれんじゃん! そうかそうか~ツムギちゃんはそんなに私のこと好きなんだなぁ~」
ニヤニヤとしながら私の脇腹を肘で小突いてくる。その動きに合わせて橋から垂らした釣り糸がぐわんぐわんと揺れた。
「ちょっと! せっかくとった魚逃げちゃうから! ちゃんと持って!」
「え? うわっ、やばっ!」
私とヒカリ、二人して釣り糸を必死に手繰り寄せる。さっきまで冗談抜かしてたのに、いきなり慌てるヒカリの様子がおかしくて、思わず笑ってしまった。それを見て、ヒカリも大きく口を開けて笑い出す。
私たちの笑い声が、廃墟と化した街に響き渡る。それ以外の音は、何もない。かつて有数の繁華街だった秋葉原の末端にあるこの万世橋の上には、今は私とヒカリしかいない。
半壊したヨドバシカメラにも、ツタにまみれた秋葉原駅構内にも、窓ガラスの割れたUDXにも、今はもう誰もいない。二人だけの退屈すぎる世界で、とっくの昔に賞味期限が切れた日常茶飯を今日もまた味わっていた。
「あはは、はぁ、はぁ……。とりあえずこんだけ捕れれば夕飯には困らないっしょ」
引き上げたかごの中には黒く大きな鯉が何匹か入っていた。ヒカリはミリタリーショップで手に入れた迷彩柄のジャケットを濡らして、かごを掲げる。跳ねた水が冷たい。
「ちょっとやめてよ、川の水臭いし冷たいんだから跳ねかさないで。ねぇ、そろそろ冷えてきたし帰らない?」
「よしっ、賛成! 早く魚食べたいし帰ろっか!」
夕飯が確保できたので、私たちは愛しの「マイホーム」に帰ることにした。
私たちの住む家は、末広町の方向へ少し歩いたところにある。そこはかつてパソコンのジャンク品を売っている店が密集していた場所だ。そんな元賑やかな路地のとある一角にある、雑居ビルの二階に、私たちは棲みついている。「マイホーム」などと呼んでいるが、元々は知らない誰かが住んでいた家だ。かつての住人はきっと大災害の影響で消滅(・・)してしまったんだろう。
それは三年前、突如として発生した未曾有の大災害だった。その災害は地震や火山噴火、洪水などのような災害ではなく、「隕石」の落下によって発生した。
あの日隕石が落ちたのと同時に、ほぼすべての人類がホログラム映像のように消滅してしまったのだ。私のおかあさんも、友達も、その時入院していた病院の先生も他の患者も、街を歩いていた知らない誰かも、みんな等しくまっさらに消えてしまった。
原因は何も分からない。みんな異世界に飛ばされたんだと勝手に思っているけれど、正解を確かめてくれるような頭のいい人たちすら、まるごと消えてしまっている。
悲しむ隙すらないくらい。あっさりと。何もかもが、今私たちの目の前に落ちている巨大な石ころに変えられてしまったんだ。
「こっから足元危ないから、ちゃんと掴まって」
崩壊した秋葉原の姿を背にして、ヒカリが私の方に右手を伸ばす。ビックカメラ前の交差点は隕石の落下地点から目と鼻の先だ。しかも大小の瓦礫で地面がガタガタなので、著しく体力のない私が通過するにはかなり苦な場所だった。
「ん、ありがと」
差し出された右手を、左の手で受け取る。ヒカリは手を握ると、歯が見えるくらいにニッと笑って力強く私を引き寄せた。この世界からたくさんの人がいなくなってから、いつもこうしてヒカリが先に立って、私を導いてくれる。それは、前の世界よりも今の世界の方がずっと幸せに思えてしまうほど、私にとっての救いだった。
「手、すごく魚臭いよ」
「うっさいわ!」
軽く私を小突いて、またニッと笑う。少しやけた肌を燦々と輝かせるヒカリの姿は、冬に咲いた向日葵のようで、場違いなほどにこの世界を照らしている。その向日葵に誘われるように、私はヒカリの方へもう半歩身を寄せて歩いていた。
十五分余りかけて歩いて、ようやく家に着いた。普通に歩ければ五分以内に着くような距離なのに、隕石によって開いた大穴を通過しなければならないので随分と遠い距離に感じてしまう。ほぼ山登りのような道のりだったので、ただ通過するだけで大きく疲れる。
「ツムギ、体調は大丈夫そ?」
「うん、大丈夫。今日は比較的調子よさそうだよ」
手を繋いだままだったので、きっと私の脈拍が強まったことに気づいているのだろう。呼吸器系の持病があるので、どうしても脈が速くなってしまう。
「一応しばらくは安静にしておこうか」
「そうだね、ありがと」
ヒカリは魚の入ったかごを台所において、私を寝室まで連れていった。二人でベッドに仰向けになって寝転がる。かつての住人は一人暮らしだったのか、私たちがいつも寝るベッドはシングルベッドだ。二人で寝るには、あまりにも狭い。
「ねぇねぇ、日が落ちてからちょっとゲーセンまで遊びに行かない?」
私と向かい合って話すヒカリの顔が、すぐ近くに見える。無邪気な表情だけど私よりも大人びていて、包み込むような優しさを含んでいる顔だ。世界が滅びても、彼女の虹彩だけは前の世界の空のように綺麗なままだった。
「いいね、行きたい!」
「よし! じゃあ決まりだ! 日暮れまでに疲れ取っといてよ?」
「分かった。じゃあさ、疲れ取りたいからアレ(・・)やって」
「仕方ないなぁ。ツムギちゃんは甘えん坊さんなんだから」
そう言ってヒカリは私の両頬へと手を伸ばす。冷たいが、慈愛に満ちた両の手のひらにすっぽり包まれる。
そしてヒカリが目を閉じると、その両手は徐々に暖かくなってゆき、ぱっと部屋が明るくなった。彼女の周りには青白い光が現れ、電気の通っていないはずの部屋の蛍光灯にも、灯りがともった。狭いベッドの上で、彼女と接している部分がみるみる暖かくなっていく。
「どう? 暖かい?」
「うん。でもやっぱ手が魚臭いかも」
「バカ!」
ギュッと頬を押しつぶされた。愛のあるその手は、青白く半透明に揺らめいている。
ヒカリは大災害が起きたあの日から、説明のできないような不思議な能力を宿していたのだ。
2
ベッドの上でうつらうつらしているうちに、窓から鋭い夕日が差していた。ヒカリは既に能力を使う前の姿に戻っており、いつでも外に出られるように、リュックサックにペットボトルやナイフを詰めていた。
「おはよ、ツムギ。そろそろ出れそ?」
ヒカリはリュックのチャックを締め、さっと立ち上がる。
「おはよう。もう出れるよ」
ヒカリのお陰で十分に休めたので、呼吸も脈も正常に戻っている。部屋着も外着も同じようなものなので、体調と身なり双方ともにいつでも出れる状態だ。
「よし、じゃあ出発しちゃおうか!」
再びヒカリに手を引かれて雑居ビルの階段を下る。やや埃をかぶったガラス扉を開けると路地は夕方と夜の境目、オレンジと紫の中間色に染まっていた。十一月下旬の夕日は夏のときよりも澄んでいて、寂れた看板の影を濃く長く伸ばしている。
「もうすっかり冬だね」
「そうだねぇ、まぁでも暑いよりかマシかな。私は自分から涼しくはできないから」
そう言ってヒカリは繋いでないほうの左手を前に突き出すと、一瞬その手を青白く光らせた。
「ヒカリちゃんパワーがあれば冬でも暖かいもんね」
「その名前ハズイからやめてよ」
照れ隠しのように、早口でヒカリは言った。
ヒカリは大災害が起きる前までは、ごくごく普通の女の子だったらしい。災害が起きた時、ヒカリも他の人たちのように消滅しかける感覚がしたらしいが、目が覚めると体中に青白い光がまとわりついたまま、ヒカリだけがこの世界に取り残されていたそうだ。その時から、ヒカリは特別な「何か」を宿していた。
「でもその力って何なんだろうね」
「……ね、ホントに何なんだろうなぁ~。未だによくわかんないけど、とりあえず暖かいのと電気が使えるのは便利でいいよね」
自分の左手を見つめて、グーパーしながらヒカリは話す。彼女自身もその能力がどういったものなのかは分かっていないが、どうやらその能力に適応する才能はあったらしく、「ヒカリちゃんパワー」を上手く使いこなしているみたいだ。左手をぼうっと見つめたまま、ヒカリが言う。
「まぁ役に立つ能力でよかった気がする。これがもし空を飛ぶ力だったとしても、多分何の役にも立たなかっただろうな」
「そうかな、もし空を飛べたらこんな疲れる道を何回も歩かなくて済むかもしれないけどね」
「はいはい、何度も歩かせてごめんなさいねぇ~」
私の言葉に対して、ヒカリは皮肉っぽく言って見せた。意地悪な言い方だけど、可愛らしく頬をぷくっとさせている様子がおかしくて、また笑いそうになってしまった。私はヒカリにバレないよう、口角の上がった顔を隠すようにうつむきながら歩いた。
目的のゲームセンターは、電気街の通りを万世橋側に戻る途中にある。よく分からない免税店とフィギュア売り場の間に狭い入口があり、そこのエスカレーターをのぼると入れる、アキバの中でも穴場的なゲームセンターだった。今は入口前の街路樹が倒れ建物を貫いてしまっているので狭かった入口の方は塞がり、建物に開いた大穴が新しい入口になってそこから入れるようになっている。
私たちは倒木の上を伝って建物の中に入った。三年もの間倒木が放置されているので、木のあるところからツタや草花が伸び放題になっている。真っ暗なアーケードゲームの画面にツタが生えているなんて、こんな世界にならないと見れない光景だろう。入院していた時、よく植物の本を読んでいた私にとってはかなりお気に入りの場所だ。
「おっ! ここに生えてたやつもう花開いてんじゃん!」
前を歩くヒカリが、倒木の上に花が咲いているのを見つけて興奮していた。
「すごいね! 多分これアングレカムだよ。蘭の一種で日本だとすごく珍しいやつだった気がする」
私の説明にヒカリは一層目を輝かせ、白い花を見つめる。
「ツムギよく知ってるね! 花言葉はなんていうの?」
「『祈り』だったかな? 忘れちゃった」
アングレカムの花言葉が祈りという言葉で合っていたかは定かではないが、今こんな世界で綺麗に咲いている花は、確かに誰かの「祈り」を背負って咲いているように見えた。
「綺麗だなぁ。このまま元気に育つといいね」
ヒカリの純粋な言葉に私はただただ頷いて、その祈りの花にペットボトルの水をかけておいた。
「ねぇねぇ、ツムギ! せっかくゲーセン着いたんだからゲームしようよ!」
私が花に水をやっていると、突然思い出したかのようにヒカリは立ち上がった。どうやらヒカリは遊びたいゲームを見つけたらしく、ツタに覆われた筐体の中でも一番奇麗なものめがけて走り寄って行った。私が「電源はどうするの?」などと野暮なことを聞く前に、既にヒカリは筐体に向けて力を込め始める。バチバチと周辺の空気が痺れ始めると、徐々に暗いスクリーンが端から順に起動してゆく。ブラウン管のような円弧を帯びたスクリーンからは、レトロゲーム特有のピコピコした音が鳴り出した。
「どうよ? 『ヒカリちゃんパワー』は」
振り返ったヒカリは、得意げな表情だ。早くゲームをしたくてうずうずしている。
「最高。さすがヒカリ」
私はヒカリの隣の椅子に座り、ゲーム画面と向き合った。
それからしばらく、私たちは色んなゲームをして遊んだ。一対一の格闘ゲームや宇宙人からの侵略を防ぐシューティングゲーム、巨大ロボを操縦して戦うゲームにレーシングカーで競い合うゲームなど、そこにある限りのゲームを遊びつくした。操作方法すらロクに分からなかったけど、ヒカリとするゲームはどれも最高に楽しい。
これほど非現実な今の世界を生きていても、私たちはゲームの中の非現実を十分に楽しむことができるんだ。
ほどなくして、私たちはほぼすべてのゲームを遊びつくした。あまりに楽しんでいたので、外はすっかり暗くなっていた。もう十一時を過ぎたぐらいだろうか。月明かりに照らされた倒木や花々がおぼろげな白に輝いている。
「楽しかったね。もう遅いし帰ろうか、ヒカリ」
「そうだね。……よいしょっと。行こうか」
私に呼びかけたヒカリがすっと立ち上がる。出口の方へ向かったところで、突如ヒカリの動きが止まった。
「……っ!」
何かを見つけて、ヒカリは素早く身を屈める。明らかに緊迫した空気がその場に流れ出した。入り口側に何かがいるのかもしれないので、私も息を殺してヒカリの様子を伺う。すると向こうの一点をじっと見つめるヒカリが、極限まで絞った声で私の耳元にささやいた。
「人がいる。男の人。しかも銃を持ってる」
私は初め、その言葉が信じられなかった。災害が起きてからの三年間で見たことがある人間はヒカリを含めて四人程度で、その誰もが「普通の人」に見えた。だから、今になって銃を持つような人がいるということはあり得ないように感じられる。しかし、ヒカリの視線は真剣そのものだったので、どうやら本当のようだ。
銃をもった男は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。聞こえてきた音は複数で、うっすら会話のような音も聞こえた。もしかしたら一人だけではないのかも知れない。私とヒカリは、心臓の音が重なり合うほど身を寄せ合って「何か」が来るのに備えた。
足音がゲーム筐体を挟んで一メートルくらいのところまで迫ってきている。男がもし角を曲がれば、私たちは見つかってしまう距離だ。
「もうこっちまで来る。ヤツがこの角を曲がった瞬間に私が捕まえるから、ツムギは隠れてて」
私が制止する隙も無く、ヒカリは勢いよく筐体の陰から飛び出した。予備動作すら見えぬ速さで、ヒカリの左足が標的を捉える。
「ぐわっ!」
飛び出したヒカリの蹴りは相手の手元に直撃した。突然の攻撃に、男は持っていた機関小銃を勢いよく遠くへ吹っ飛ばしてしまった。これで男は武器を持っていない。その瞬間をヒカリは逃さなかった。
「おりゃぁぁぁ!」
武器の飛んだ方向に気を取られている男の首元に、ヒカリは飛び掛かった。右腕を伸ばし、ラリアットをするような姿勢を取る。わずかに男は反応が遅れ、ヒカリの右腕が首元にヒットする。その勢いのままヒカリは男の後ろへぐるりと回り込み、首を絞めるようなポーズで静止した。
「ぐっ……誰だお前は!」
抑え込まれた男が声を発した。聞こえてきた声は想像していたよりも高く、幼く感じる。その顔をよく見れば、男はまだ十二歳程度の子供だった。私もヒカリも一瞬動揺したが、慄いている暇もなく、鋭い声と共に再び緊迫が帰ってくる。
「動くな!」
筐体の裏側、倒木で開いた入り口に近い方から別の人間の声が飛んできた。私から見える範囲で三人、全員が銃を構え、ヒカリの方向へ銃口を揃えている。相手はやはり一人ではなかったようだ。対するヒカリは依然、幼く見える男を人質に取る形で止まっていた。銃を持つ相手へ向けて、ヒカリが声をあげる。
「そっちこそ誰なの? 先に銃をおろして」
ヒカリの言葉にも相手は反応せず、沈黙と膠着が続く。私にはこの一瞬の膠着が永遠に感じられた。ヒカリを睨む銃口が照準を外すまで、生きた心地がしなかった。
「銃を下してください」
長い膠着は、知らない男の一声で終わりを迎えた。銃を持った三人がその男の一声で一斉に銃をおろす。
月明かりで妖しく光る建物の入り口から出てきた男は、どこか冷酷な雰囲気を纏いながらこちら側へ向かって歩いてくる。長身で痩せ型の中年に見えるその男は、崩壊後の世界ではまず見ないような黒いスーツを着ており、その上から厚手の黒いコートを羽織っていた。
「お久しぶりです。海(み)船(ふね)ヒカリさん。復興省の霧島クニムネです。こちらは銃を下したので、まずは彼を解放してあげて下さい」
黒服の男、霧島はヒカリの名前を知っているようだった。霧島と名乗る男の呼びかけに応じたヒカリは少年を解放し、私のもとへ駆け寄る。無感情にヒカリを見つめる霧島に対して、ヒカリの視線には明らかな敵意が含まれていた。普段優しくて朗らかなヒカリの、これほど怒気のこもった顔を見るのは初めてだった。ヒカリが、いつもより低い声で話し出す。
「……何しに来たの。私はもうそっちに戻るつもりなんてないから」
霧島は終始感情の読み取れないような表情をしていたが、その目からはどこか焦燥のようなものが感じられた。
冷静を装っていながら、冷静さを欠いている。
「私も手荒な真似はしたくないので、海船さんには協力していただきたいのですが……。まずは一度、私のもとに戻ってゆっくり話し合いませんか?」
落ち着いた声の内側に、苛立ちのようなものが見える。霧島という男とヒカリの問答の内容が、私にはほとんどわからなかった。それでも私には、この霧島クニムネという男とヒカリにかつて何らかの関係があって、今霧島はヒカリのことをある組織に戻そうとしているということが、なんとなくわかった。
霧島はゆっくりとこちら側へ近づきながら口を開く。
「今私たちは新宿の東京都庁に新たな中央政府を建設しています。あなたが中央にいた時に作成中であった『レミニセンス』もすでに完成しています。海船さん、あなたの能力さえあればこの世界の、少なくとも旧首都東京の再建は可能になるはずです。力を貸していただけませんか?」
『レミニセンス』という単語を聞いて、ヒカリは目を見開いた。話されている内容の一切が分からないが、何か大きなことに巻き込まれているような、嫌な予感がした。すると不審に思っていた私の存在に、霧島が気づく。
「あなたも、中央政府のもとまで来ていただければ、安全を保障します。是非、ご一緒に」
霧島は人工的な笑顔を私たちに向けて、手を差し伸べた。その手の付け根には大きな縫合の痕があり、手首から先は義手である。
ヒカリは差し出された霧島の右手には目もくれず、相手の眼孔を睨みつけたままだった。
近づいてくる霧島に聞こえぬよう、ヒカリは押し殺した小さな声で私にささやいた。
「ツムギ、逃げるよ。私が合図したら目つぶって私につかまって」
霧島と私たちの距離が片腕の間合いまで詰まる。次の瞬間、ヒカリが叫んだ。
「ツムギッ!」
叫ぶ声と同時に、私はギュッと目を瞑りヒカリにしがみつく。周囲の空気にバチバチと痺れるような感覚が走ると、ヒカリは私を抱きかかえて勢いよく走り出した。
「待ちなさい!」
背後から霧島の声が聞こえたのと同時に、ヒカリの体が発熱し出す。
「くらえっ!」
ヒカリの声と共に、目を瞑った私ですら眼球が焼き付いてしまいそうなほど強大な光が発生した。触れているヒカリの体が熱いので、恐らくヒカリが能力を使ってゲーム筐体から強い光を発生させて目くらましを行ったのだろう。少し離れた低い地点から、呻く霧島とその手下の者たちの声が聞こえてくる。
「くっ……! 駄目だ! 待ちなさい!」
霧島が拳銃をこちらへ向けていた。何発か引金を引いたが霧島は目を瞑ったままなので、暴発した弾丸は見当違いな方向へ放たれる。
「ツムギ、気にしちゃ駄目! 走るよ!」
私は目を開き、ヒカリに言われるがまま走り出した。倒木の上を転がるように伝って外へと脱出する。
外に出てから私たちは、瓦礫で通りづらい道を命からがら走った。私たちの家までの道のりは厳しかったが、ヒカリのアシストのお陰で何とかゲームセンターから離れられた。幸い、まだ追手の姿は見えないみたいだ。ひとまず逃げられたようだったが、何も理解できないまま走らされたので、私の頭はパニック状態だった。
「ねぇ……! あの人たちは……誰なの! なんで……逃げ……逃げなきゃダメなの!」
走って息を切らしながら質問する私に、ヒカリの動きが止まる。そして呼吸が乱れ上下する私の肩を抱き寄せたヒカリは、私を落ち着かせるようにゆっくりと言った。
「今まで黙っててごめん、ツムギ。あの人たちは私の能力を狙ってる人たちなの」
「それってどういうこと……? いきなりすぎて分かんないよ!」
私の言葉をはぐらかすようにおちゃらける様子はなく、ヒカリの態度は至って真剣だった。
「あの黒づくめの男の人、霧島クニムネは首都再建のために私の能力を狙ってる」
一度抱き寄せた私の両肩に手を置いて、ヒカリは私と見つめ合う形になった。そして、真っ直ぐな瞳でヒカリは言う。
「私はあの男に殺されかけて逃げてきたの」
3
あれから一時間以上経っても、追手の気配は感じられなかった。かつて都心だったとはいえ、はるか昔に電力供給はストップしているので、外は月の落ちた今、五等星すら見えるほど真っ暗だ。これほど暗ければ、霧島たちは一旦撤退せざるを得ないはずである。
私は家に着いてからベッドに倒れこみ、そのまましばらく動けなくなった。無理やり動かした肺に痛みが走る。どうしようもなく苦しくて、ただひたすら悶える他なかった。
「ツムギ、大丈夫? ゆっくり呼吸しよう」
ヒカリはしばらく台所のところに行っていたが、すぐに枕元に戻ってきてくれた。
「……うん。少し楽になった。……まだ苦しいけど」
咽ながら話す私をヒカリが心配そうに見つめる。それからヒカリはベットに入ってきて私の頭を撫でながら語りかけてくれた。
「お昼にとってきた魚を焼いたやつとお粥作ったから、後で食べよ。一旦落ち着いてからでいいから」
無言で頷く私をそっとヒカリが抱きしめる。彼女と触れた部分が暖かく、傷を癒してくれるような優しさに包まれていた。私の耳元近くで、ヒカリが話し出す。
「さっきはごめんね、いきなり走らせちゃって。私、霧島の顔を見た時、殺されそうになった時のこと思い出しちゃって、冷静でいられなくなっちゃった」
「そのことは気にしなくて大丈夫だよ。……それより、ゲームセンターで霧島と話してたこと、教えてくれる? 私、何も分からなくて」
私の言葉にヒカリは言葉を詰まらせたが、一つ息を吐いてから話し出した。
「そうだよね……。私、いつか話そうとは思ってたんだ」
優しいヒカリの手が私の頭から頬へと移動する。性格は活発なヒカリだが、その指先は繊細で美しく、それでいて優しさを有している。私を何度も導いてきたこの手は、ただただ優しかった。
月明かりがさしたこの部屋で、ヒカリだけが言葉の続きを紡ぐ。
「大災害が起きてしばらく彷徨ってた私は、最初に霧島が組織してる『復興省』って連中に拾われたの。霧島たちは災害で生き残った数少ない人たちで組織を作って、この世界を再建しようとしてた。拾われてからしばらく、私は霧島のもとで生活しながら、首都再建の手伝いもしてたんだ。私自身も最初はこの世界を元に戻すのに賛成だったたし、生き残った人たちも技術を持った人が多くて、本当に東京の再建くらいできるんじゃないかって思ってたの」
私は滔々と語られるヒカリの言葉に耳を傾ける。微かに震えているヒカリの体を抱き返して、続きを聞いていた。
「……でもやっぱり、簡単に再建なんて不可能だった。東京という大都市のインフラを復旧させるには莫大なエネルギーが必要になるし、仮設で作ってた発電システムも、一つのコミュニティを賄うだけで精一杯だったんだ。だから私は、霧島たちの前で自分の能力を使ってしまったの。私が持っているエネルギーなら、あらゆるインフラを復旧させることができると思ってね」
「じゃあ、ヒカリの力で再建は前進したんじゃないの?」
私の質問に、ヒカリは無言で首を横に振る。
「確かに私の能力で色んなエネルギーを賄えたけど、結局それって一時的なものに過ぎなかったの。霧島が言うには、私のこの能力は大災害の副産物らしくて、その厄災の神秘を余すことなく使うには、私の体からじゃ出力しきれないみたい」
私はここまでのヒカリの話で、なんとなく推察が付いてしまった。
「じゃあもしかして霧島が言ってた『レミニセンス』っていうのは……?」
「うん、私の代わりにエネルギーの出力を行う機械のことだよ。私が向こうにいた時に、霧島が私の能力に目をつけて配下の技術者たちに作らせたマザーコンピューターシステムのこと。配線を巡らせさえすれば、崩壊前の世界みたいにどこでもエネルギーを利用できちゃうの。それが完成してるってことは、私の能力さえ手に入れば、少なくとも東京全土のインフラを復旧させることができるってことになるね」
私がいつもヒカリに助けられているように、霧島や中央政府にいる人たちも、ヒカリの能力の絶大な恩恵に救われてきたのだろう。それは素晴らしいことだし、たくさんの人が幸せに暮らせる未来があるなら、私もインフラの復旧には賛成だ。でも、私にはどうしても腑に落ちないことがあった。
「……でもさ、もしヒカリが霧島のところに戻って、『レミニセンス』って機械に能力を預けたら、そのあとヒカリはどうなるの?」
私の質問に、ヒカリは固まった。さっきまで焦点が合っていたヒカリの視線が、虚ろに泳ぎ出す。ヒカリの言葉を聞かなくても、世界が凍り付いたようにも感じられるこの沈黙が私の質問の答えだった。
「……分からない。……けど、多分私の意識は戻って来ないかな。だって、霧島は確かにあの時私を殺そうとした。私が意識のある状態では能力を抜き出せないから、合意の有無を言わせる前に殺そうとしたんだと思う」
私は、ヒカリの震える表情が耐えられなかった。普段は明るいヒカリだから、辛い表情を見ていると、呼吸がいつもの何倍も苦しくなった。しばしの沈黙が響くこのベッドルームで、お互いの孤独や恐怖を埋め合わせるように私たちは身を寄せ合う。
ヒカリは私にとって母のような存在であり、恋人のような存在だ。いきなり現れた知らない誰かになんか奪われたくない。
ヒカリに守られたいし、ヒカリを守りたい。
「……ここから逃げよう、ヒカリ。このままここにとどまってたらまた霧島たちに見つかっちゃう。どこか遠くの山の方で、二人でゆっくり過ごそうよ」
ヒカリと過ごせるならどこに行ってもいい。今考えつく最善の策を私は何とか模索する。しかし、ヒカリの返答は意外なものだった。
「それもいいかもね、ツムギ。……でも私はこのままここに残っていたいかな」
「なんで? このままだとヒカリが危ないんだよ!」
「確かに命が狙われてるのは怖いけど、これから遠くに移動するのはそれ以上に危険なんだ。災害から何年か経って、使われなくなったガス管が破裂してたり、隕石のせいで地割れを起こしてたりするから、道のりは相当厳しいと思う。私がいくら歩けても、ツムギの体力の方が心配だよ。移動の途中でツムギの体に何かあったとき、私ひとりじゃ助けられないかもしれない」
私と向き合って話すヒカリのまなざしは、いつもより真剣で、それでいて優しく見えた。その澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。
それからヒカリは、柔らかく私のおでこにキスをして続けた。
「それにね、ツムギ。私はツムギのことが誰よりも大好きだから、私にとってここでの生活が他にはない宝物なの。このベッドで寝っ転がったり、万世橋で魚釣りしたり、ゲーセンに行ったり、崩壊した後の街を散策したり、ツムギと一緒に楽しい思い出いっぱい作ってきたじゃん。多分ツムギと出会えなかったら、こんなに楽しい気持ちなんて味わえなかったと思うんだ。だからここから逃げないし、霧島たちなんかにさらわれたりもしない。私はツムギと一緒に居たい」
ヒカリの表情に、いつの間にか迷いがなくなっていた。「一緒に居たい」という思いは私と同じなんだと、あらためて実感した。
「……分かった、一緒にここに残る。私も、ヒカリと一緒に生きたい」
「ありがと、ツムギ。迷惑かけてごめんね。もう遅い時間だから、お夕飯食べて寝ちゃおっか」
それから私たちは少し冷めてしまったお粥と焼き魚を食べて、体を洗ったら再びベッドに入った。ドッと疲れた今日という一日を、ここでまた締めくくる。そして眠る前に、私たちは軽くキスを交わして、愛を確かめ合った。いつも興奮して肺が苦しくなってしまうが、それ以上に心はこの上なく満たされていた。
人々が消え去った世界に取り残された私たちは、こうやって愛を知った。本当は知った気になっているだけなのかもしれないけど、私たちにはこれで十分だった。先に寝付いたヒカリの柔らかな顔を眺めてふと思う。
二人で寝転がるシングルベッドの上にしかない愛の形も、この世界にはあるのかもしれない。
4
その日の朝、私たちはすさまじい轟音とともに目を覚ました。決してボロくはないはずのこの雑居ビルですら、音を立てて軋むほどに強い地震が発生したのだ。隕石落下の大災害以降、気候変動や大地震の兆候は何度か見られていたが、これほどまでに大きな地震は珍しかった。私とヒカリはお互いの身の安全を確認してから、外の様子を確認するために家を出た。
「うわぁ……! すんごい地割れしてる。一応危ないから看板の下は通らないようにしよっか」
ヒカリが先に立って街を歩く。電気街の大通りには、道を縦に分断するように大きな亀裂が入っていた。
幸い通行不能なほどの大きな溝はできておらず、私たちは家から十分弱でヨドバシカメラの前に着いた。ヨドバシカメラは隕石の影響で元々壁が崩落しているので、地震で入り口が塞がれていないかを確認したかったのだ。ここが利用できなくなると、生活に必要なあれこれを買い替えられなくなってしまう。……まぁ買ってはいないんだけど。
「とりあえずヨドバシカメラの方は大丈夫そうだね。……あ、でもこっちはひどいなぁ」
私が指さした方向には昭和通りがある。そこに沿うように高速道路が走っていたのだが、どうやらこっちは地震で完全に崩落してしまったようだ。もともと隕石が直撃していた箇所の一つだったので、全壊も無理はない。ヒカリが遠くを見るように目を細めて言う。
「ありゃー、随分派手に崩れたねぇ。一応あっち側も見てみようか」
私たちはヨドバシカメラ横の道を進む。学習塾のある建物に差し掛かったところであるものを見つけ、私たちは思わず声を上げた。
「……あっ!」
そこには全身血まみれになった二人の少年がいたのだ。すぐに駆け寄って安否を確かめる。
「瓦礫の下敷きになってる! 早く助けないと!」
ヒカリの叫び声に、少年の片方が反応した。どうやらまだ意識はあるようだった。
「……助けて下さい! お願いします! せめて……せめて弟だけでも」
「大丈夫⁈ 今助けるから待っててね!」
ヒカリはすぐさま近くに停めてあったバイクに手をかけ、能力を発動する。たちまちバイクにエンジンがかかると、そのバイクを少年たちの近くまで寄せて、近くに落ちていたごみを覆うためのネットをタイヤと瓦礫両方に引っ掛けた。
「はぁぁっ!」
そしてヒカリが両手を青白く発光させると、すさまじい勢いでタイヤが回転し出す。バイクの車輪にネットが勢いよく巻き込まれ、二人の少年たちにのしかかっていた大きなコンクリート片が彼らを解放する。その隙に私は、苦労しながらなんとか二人の少年を安全なところまで引きずり出した。
近くまで来て初めて気づいたが、意識がある方の少年は左足が完全に折れており、痛々しくひしゃげていた。意識のない方の少年も頭を強打したらしく、顔や髪を血で真っ赤に染めている。こっちの子は瀕死であった。
「弟を……ノゾムを助けて下さい」
私の方を真っ直ぐ見つめて、意識のある方の少年は言う。そう言う少年も、足からの出血が止まっていなかった。
「このままだと二人とも多量出血で命が危ないから、一旦治療できるところまで運んであげよう! ツムギは無理しないでいいから、できるだけこの子達のそばで支えてあげて」
ヒカリの言う通り、このままではどちらの命も助からない。私たちは、一度応急処置をするために、彼らをヨドバシカメラの中まで運んでいくことを決めた。ヒカリは意識のない子を担ぎ、私は左足の折れた子の方を支えて、お互いボロボロになりながら進んでいった。
ヨドバシカメラに入って、すぐに彼らの止血にとりかかった。私たちは売り物だったベッドに少年たちを横たえて、傷口やその周辺を丁寧に拭いてあげる。消毒液もガーゼも売り場に存在するので、止血にそれほど時間はかからない。
手当が完了してから、私は意識のある子の方に話を聞いた。名前はカナエというらしい。意識が無い方の子が弟のノゾム。十二歳と十歳の兄弟だ。カナエ君とノゾム君は災害直後、二人で秋田の山奥に暮らしていたのだが災害から二年で生活に限界が来たらしく、自分たち以外の生き残った人を探すために都市を目指して旅をすることを決意したそうだ。道中で作ったのか、二人とも乗用車のホイール部分でできた盾と鉄パイプの棍棒を装備していた。
「ここに来るまでに、いろんな都市を目指しました。仙台、前橋、宇都宮……、全部通りましたが、どこへ行っても生きた人間とは出会えませんでした……。大宮に着いたときにようやく見つけた人も、既に首を吊って自殺した後でした。苦労して東京までたどり着いたんですが、地震に巻き込まれてしまい、弟はこんな目に……」
カナエ君は弟の方を向いて悲し気な顔をした。頭部の止血は完了したものの、未だノゾム君の意識は戻らないままだ。
「頑張ってここまで来たんだね。二人ともすごいよ」
ヒカリがカナエ君の背中をさすって励ました。私もヒカリの手の上から、カナエ君の背中に手をかざす。多分災害で家族も失って、この兄弟ふたりぼっちで孤独な旅路を進んで来たのだろう。その道中のことを思うと、いたたまれない気持ちになった。
静かに涙を落していたカナエが、堰を切ったように泣き出す。
「僕の足は二度と使えなくたって構いません……。でもノゾムは、どうかノゾムのことだけは助けてあげて下さい! お願いします!」
「……うん。安心して。ノゾム君のことも、カナエ君のことも必ず助けるよ」
ヒカリは何か決心したように立ち上がり、少年たちに向けて力強く声を掛ける。
「ツムギ、私この子たちを復興省のところに送ってあげようと思う」
私はヒカリのその言葉に耳を疑った。
「それって霧島のもとに行くってことでしょ⁈ 駄目! そんな危険なことしたらヒカリがどうなっちゃうか分かんないじゃん!」
「確かに危険は伴うよ。でも、もし私が行かなかったら、多分ノゾム君の命は助からない。復興省になら医療を施せる機材も技術もそろってるし、その後の生活環境も十分整ってる。それに、カナエ君とノゾム君はここに来るまでに大変な思いを何度もしてきたと思うんだ。だから、復興省に二人を預けてあげたい。これからの二人の生活が、少しでも安心できるようにしてあげたいの」
ヒカリの言っていることは確かに正しかった。私も、カナエ君とノゾム君を見捨てるつもりはない。でも、それ以上に私は、ヒカリを失いたくない。
「分かった。二人を復興省に届けてあげるのは許す。でも私も連れてって」
家具売り場だったヨドバシカメラの一角に、沈黙が走る。ヒカリは少しうつむいて考えてから口を開いた。
「……ごめん、それはできない」
「なんで! 私だってヒカリのことが心配なんだよ!」
「そんなこと今はいいんだって! 頭から血を流してたんだよ? 少しでも早くノゾム君のことを治療してあげないと助からないんだよ!」
ヒカリは私に対して𠮟りつけるように言った。今まで聞いたことのないような、きつい声。いくらノゾム君のためだと言っても、私の心配する気持ちを分かってくれないヒカリに対して少しだけ腹が立つ。
「じゃあ私は足手まといなんだ」
「そんなこと言ってないじゃん! ……私だってツムギの体のことが心配なの。お願い」
ヒカリの言葉に、何も言い返せなかった。私は力なく、ヒカリから視線を逸らす。
逸らした視線の先に、二人の少年の姿がある。眠るように目を瞑ったままのノゾム君を、カナエ君は泣き腫らした顔で見つめていた。その姿を見ていると、ヒカリを引きとめることができなかった。私だけじゃなくて、カナエ君もこの孤独な世界で支えを失うことが怖いんだ。
結局、ヒカリのことを止めるわけにはいかなかった。
「……分かった。私はこっちで待ってるから、二人を送ってあげて」
「ありがとうツムギ。先に家に戻ってて」
建物の出口へゆっくりと向かうヒカリの背中に、私は何の言葉もかけることができなかった。
ヨドバシカメラを出るとヒカリはノゾム君をおんぶし、カナエ君の手を引くようにして歩きだした。霧島の言葉通りなら復興省は新宿にあり、生存者のコミュニティもそこに形成されているはずだ。秋葉原の駅から総武線の上を辿っていけば新宿まで一本道でたどり着けるので、私はヒカリと二人の少年をすぐそこの秋葉原駅中央口まで見送ることにした。
「じゃあ行くから、ツムギはしっかり家で休んでね」
ヒカリの声音は優しかったが、私はさっき言い合ったことが忘れられず、素直にヒカリの目を見ることができなかった。正直、ノゾム君のためにも納得せざるを得なかったけれど、私を置いていく選択をしたことには不服だ。でも、いまさら引きとめることもできなかった。
薄暗くて誰もいない、がらんとした改札に私以外の三人が吸い込まれていく。彼女らの背中が小さくなっていくのを見ているのが辛くなって、思わず私からヒカリに声をかけた。
「……夜までに。夜までに帰ってきてよね」
ヒカリは遠くで振り向くと、少しだけ間を開けてから返事をした。
「……うん! 私も霧島たちには気を付けるから。二人のことは任せてね! 行ってくるよ!」
いつものヒカリの、優しくてはつらつとした声だった。
ヒカリたちはエスカレーターのある角を曲がると完全に見えなくなった。だだっ広く荒廃した秋葉原の駅にはもう私だけしかいない。今になって、のどに詰まっていた言葉を呟く。
「……行ってらっしゃい」
私はヒカリたちの無事を祈ることしかできなかった。
家に着くと、真っ先にベッドに倒れこんだ。いつになく呼吸が苦しい。ノゾム君たちを救出するために相当体力を使ったからだろうか。それともヒカリと言い合いをしてしまった興奮状態のせいだろうか。原因は分からないけれど、胸が痛くて、咳も止まらなかった。
咳を押さえようとすると、私の手は何か生暖かいものにまみれる。
「……うっ」
血だ。私の病状はやはり進行していた。いままでヒカリの介抱のお陰もあって何とか過ごせていたが、病気の進行自体は止められていないようだ。
「うわぁ……。シーツに血ついちゃった。ヒカリ怒るかな……」
昨日までヒカリが寝ていた部分に、私の吐血がシミになって広がる。私はそのシミの部分を掴んで自分の身に寄せた。でもそこに、ヒカリのぬくもりは感じられず、ただべたついた血だまりと埃をかぶった部屋の匂いしか残っていなかった。
どうせ夜には帰ってくるはずなのに、少し一人になるだけで恐ろしいほどの孤独を感じる。早くヒカリに帰ってきて欲しい。わがままを言ってしまったことを許して欲しい。いつ死んでしまうか分からない私のことを置いて行かないで欲しい。
そして、私のことを抱きしめて暖めて欲しい。
私はヒカリのことだけを考えながら、呼吸を落ち着かせるために眠りについた。ヒカリのいない寝床は、いつになく寒く感じた。
5
あれから三日が経っても、ヒカリは帰ってこなかった。最初の一日目、私は肺が痛くて動けなかったが、ただただヒカリのことをずっと心配していた。焦る気持ちは止まらなかったが体の一切を動かすことができなかったので、その日の私はどうすることもできなかった。
体調が少しだけ回復した二日目、私は復興省まで向かおうか考えたが、結局「きっと霧島と和解したのだろう」とか「帰ったら私を置いて行ったことを叱ってやろう」とか、ヒカリの安全を信じることで自分の不安を誤魔化すことしかできなかった。
本当は、頭の中では「最悪の事態」を想像してしまっている。でも、その可能性を認められない私は、咄嗟に動き出すことよりも体力の回復を優先する選択をするしかなかった。
ただ、私の中の稚拙な合理化にもついに限界が来た。これ以上、ヒカリの帰りを待つことはできない。ヒカリを見送ってから三日目の今日、私は新宿の都庁へ向かうことを決意した。
リュックサックに最低限の荷物を詰めて家を出る。せいぜい一つ隣の区に移動するだけだが私にとっては途方もない移動なので、できるだけ身は軽くしておいた方が良い。水、ナイフ、包帯、ライター、それからお守りの代わりにヒカリと私の映った写真を持っていくことにした。いつだったかヒカリとヨドバシカメラを散策したときに、おふざけで撮ったチェキプリントだ。歯を見せて笑うヒカリが、カメラに向けて大きくピースサインを掲げている。少しの間見ていないだけで、こんなにもこの笑顔が恋しく思えてしまう。
「待ってて、ヒカリ」
私はヒカリたちの歩いた道をたどるため、秋葉原駅の電気街口を目指した。昨日も通った道のりなのに、一人で歩くとかなりきつい。体調が回復したとはいえまだ万全ではないようだ。駅に向かうだけでこれほど体力を消耗してしまうので、本当に新宿までつけるかが心配になってくる。でも、ヒカリのことを思うと脚を止められるほどの余裕はなかった。
風の音だけが響くかつての繁華街秋葉原を、たった一人で歩いた。電気街通りには隕石による瓦礫と、黄色いイチョウの落ち葉と、虫が這うスピードで歩く私だけが取り残されている。隣を歩く存在が無いだけで、孤独の解像度が格段に上がったように感じられた。私の心拍はすでに異常なまでに上昇しており、歩いているだけで呼吸が苦しかった。その痛みを和らげるぬくもりが無いことを、冷えた左手が嫌というほど教えてくれる。
電気街口手前の広場に差し掛かったところで、私は一度その歩みを止めた。遠くの、駅の改札から人が出てくるところが見えたのだ。
ヒカリが、ヒカリが帰って来たに違いない。痛みも苦しさも寒さも忘れて、私は駅の方へと駆け出す。
「……ヒカリッ! ヒカリー!」
三十メートル先、駅の改札へ向けて手を振る。しかし次の瞬間、私の振った手は力なくすとんと降ろされる。
日陰だった改札から日の差すところまで出てきた人物はヒカリではなく、黒いスーツに黒いコートを羽織った男だった。
復興省の霧島クニムネであった。
駅から出てきたのが霧島であると分かった瞬間、私は膝から崩れ落ちてしまった。ヒカリは、霧島に捕まったんだ。思い描いていた最悪の事態が、今まさに実現してしまった。
ヒカリとはもう会えないの? そんなの、嫌だ。
「……ヒカリ」
ポケットに突っこんだままの写真を取り出して、笑った顔のヒカリと目を合わせる。ゆっくりとこちらへ向かってくる霧島の方にはとても目を合わせることができなかった。きっと恐怖からでも、気まずさからでもなく、最悪の現実を受け入れないためにそうしたんだと思う。
ヒカリの笑顔を見ていると、楽しかった思い出たちがフラッシュバックする。でもそれと同時に、大切な人を失った絶望が私の体を蝕んでゆく。
笑顔の写真を見ているはずなのに、涙を抑えることができなかった。
「あなたがツムギさんでお間違えないでしょうか?」
気が付けば、霧島は目の前まで来ていた。低くハスキーな声で霧島が尋ねる。
「……」
私はすすり泣いたままへたり込み、何も答えられなかった。ヒカリを迎えに行くことも、助けることも、抵抗することもできない無力さが悔しくてたまらなかった。持っていた写真が力の抜けた私の手から離れ、霧島の足元に落ちる。それを霧島はそっと拾い上げて、写真と私を交互に見ていた。
そして、霧島は何かを悟ったような表情をすると意外な言葉を口にした。
「ツムギさん、今日私はあなたへヒカリさんからの伝言を預かったので、それを伝えるためにここへ来ました」
私は顔を見上げた。白髪交じりで真面目な顔つきの霧島は、初めて見た時よりもやつれたような表情であった。
「伝言を伝える前に、先に私からあなたへ一つ謝らせて下さい。初めて会ったあの夜、私はあなたたちのことを撃ち殺そうとしてしまいました。正直あの時の私は海船さんの、海船ヒカリさんの能力を手に入れることで必死になっていて、冷静さを欠いていました。命を救うために、人の命を奪おうだなんて……。本当に申し訳ありません」
謝罪の言葉と共に、霧島は深く深く頭を下げる。私は霧島の想像だにしなかった言動に動揺してしまった。
「……それは……どういうこと」
私の問いかけに、霧島は淡々と答える。
「私にはミユキという妻がいました。あの大災害のとき私と妻は消滅することなくこの世界に生き残ったのですが、ミユキに隕石が直撃してしまったのです。ミユキは瀕死でした。何とかしてミユキの治療をしましたが、私は医者ではないのでできたことは調べて分かる範囲だけです。一命はとりとめたものの、意識までは戻りませんでした。それから、簡易的に作った装置でミユキの延命を行っていたのですが、作り出せる電力が限られているので、生命維持装置に安定した電力を受け流せない状態でした。いつ延命治療ができなくなるか、分からない状態です。だからせめてミユキのために、生き残った人たちで徒党を組んで首都再建を目指し、ミユキの意識が戻ったときに生きやすい世界を取り戻そうと組織を作ったのです」
霧島はヒカリの写真を見ながら話しているように見えたが、すぐに私の方へ視線を落として続きを語り出す。初めてあったときとは違い優しい口ぶりに感じた。
「でも本当は、首都再建なんてただの建前だったのです。本当はミユキの延命、ひいては意識の回復だけが目的でした。だんだんとミユキが衰弱してゆく日々の途中で、私はヒカリさんの能力のことを知ったのです。ヒカリさんの持つエネルギーさえあれば建前としての首都建設も、本当の目的のミユキの延命と治療も可能になることに気が付きました。だから私は、ヒカリさんのことを狙ったのです」
「だからって、なんでヒカリを殺さなきゃならないの! そんなの……そんなのただのあなたのエゴじゃない」
私は霧島の足にしがみついた。力任せに霧島の膝元を殴りつける。霧島に怒りをぶつけてもヒカリは帰ってこないなんてことを、頭では分かっているのにこの怒りや悲しみを消化することができない。
すると、泣き咽ぶ私に霧島はしゃがみこんでハンカチを差し出した。ハンカチを渡す霧島の義手が震えている。私が顔を見上げると、霧島も目に涙を浮かべていた。
「……いいえ、私はヒカリさんを殺してはいません。結局、それよりも先に妻のミユキが亡くなってしまいました」
霧島は限りなく冷淡な表情をしていたが、その瞳の内側には妻を愛していた証のような、そんな優しさが窺えた。霧島は右手の義手を左の手でさすりながら続ける。
「ミユキは体の大部分を損傷していました。顔の部分も、隕石が衝突したときの衝撃で皮膚が半分はがれてしまいました。だから私は彼女の美しい姿を取り戻すために、私の右手を移植して修復をしたんです。またいつか二人で言葉を交わせるようになったとき、ミユキには綺麗なままでいてほしかったので。ミユキは、私が今まで見てきた人間の中で一番美しかったのです。息を引き取ったあの日も、誰よりも綺麗でした。……でも、もういいんです。私はこれから、今ある命をできるだけ多く救っていくことを決めました」
霧島は私に向けてほんの少しだけ微笑んだ。真顔のように見えるのに、かつて私たちのことを襲った存在とは思えないほど優しい顔だった。
「……それじゃあヒカリは……、ヒカリはまだ生きてるの? 早くヒヒカリに会わせて!」
私の言葉に対して、霧島は表情をあまり変えなかったが、それでも少しだけ後ろめたさのようなものが感じられた。一瞬私から目をそらして霧島は話し出した。
「私はヒカリさんからの伝言を録音テープで預かっています。私からではなく、事の顛末はヒカリさん自身の言葉であなたにお伝えしたいとのことなので……」
ヒカリが今どこで何をしているのか、そして霧島がなぜヒカリの安否を隠すのかが分からなかった。それでも今確かなことは、霧島が持っているテープレコーダーの中に真相が入っているということだ。私は霧島の方を見ると、霧島は黙って静かに頷きレコーダーの再生ボタンを押した。
『……ツムギ、聞こえるかな。私だよ』
レコーダーから数日ぶりに、大好きなヒカリの声が聴こえてくる。その声を聴くだけで、一度止まったはずの涙が止まらない勢いで再びあふれ出した。
「……ヒカリ!」
届かないのは分かっているのに、私は思わずヒカリの名前を呼んでしまった。
『今私は新宿の霧島のところでこの音声を録ってる。カナエ君とノゾム君はもう治療をしてもらって安静にしてるから、安心してね』
ヒカリの息遣いが小さなレコーダーの奥から聴こえてくる。まるですぐそこにいるようで、会えない距離にいるような声。少し間を開けて音声は続いた。
『……何から話せばいいのか悩むんだけど、ツムギに直接言ったら多分怒られちゃうからこんな形で伝えるけど許してね。……私、レミニセンスに能力を預けることにしたんだ。霧島がそうさせたんじゃなくて、私の意志で』
私は、自分の心臓の拍動が止まったような感覚に陥った。ヒカリ自らレミニセンスに能力を預けたということは、もう既にあの元気なヒカリとは会えないということになる。そんなこと、信じられるわけがない。だって、ヒカリと別れるとき、そんなこと何も言ってなかった。
それなのに、どうして。
衝撃に打ちひしがれる私をよそに、テープレコーダーの音声は続く。
『だからきっと今頃、私の体は眠ったまま復興省が保管してくれている状態だと思う。……って言ってもツムギちゃんは許してくれないよねぇ~。あの時は黙って置いて行ってごめんね。やっぱり後悔もするし、もっと他にできることもあったんじゃないかって思うんだけど、こうするしかなかったんだ』
あれだけまた聴きたいと願った優しい声なのに、聴いているだけで胸が痛いほど寂しさを感じる。ヒカリの明るい声の裏に、やり場のない後悔の念を感じてしまって、なおさら辛かった。
ノイズの混じる音声はまた少し間を開けて、再び話を続けた。
『ツムギ自身が一番わかってると思うんだけど、ツムギの肺の病気はもう限界まで進行してる。一緒に生活しててすぐわかったし、苦しんでるツムギの顔を見てるとこっちもすごく辛かった。それなのに、私の力だけじゃツムギのこと助けてあげられないのが、どうしようもなく悔しかったの。それに、こっちに着いてから霧島の奥さんのことを聞いた。こんな世界だと、誰がいつ死んでもおかしくないじゃない。このままじゃ私が何もできないまま、先にツムギが死んじゃう。そんなの嫌だし、そしたら私また一人になっちゃうって思ってた。だから私、霧島のもとでレミニセンスに能力を預けて、ヒカリの治療のためのエネルギーになることにしたんだ。ヒカリには霧島のもとで肺の病気を治療してもらって、それからは復興省で安全に暮らして欲しいの。復興省なら医療を施せる人もいるし、私がレミニセンスを介してコミュニティのライフラインを繋げば、その後の生活にも困らないでしょ。それに、今はカナエ君とノゾム君がいるから、私がいなくなってもツムギは一人にはならないじゃない?』
ヒカリは、私の病状のことを理解してくれていた。私自身が見ないふりをしていたが、私の命もそう長くはない。ヒカリの前では考えたこともなかったが、避けられない事実だ。ヒカリには心配を掛けたくなかったので、その深刻さを隠していたつもりだったが、ヒカリにはなんでもお見通しであった。
でも、だからと言って自分の身を犠牲にしてまで救ってほしいなどとは思っていない。私はヒカリと離れたいなんて、一度も思ってなどいない。
「……勝手すぎるよ、ヒカリ」
泣き疲れて乱れた呼吸で、私は小さく呟いた。ヒカリは勝手すぎる。勝手で、ガサツで、無鉄砲で、楽観的で、それで……
それで、私のことを誰よりも愛してくれている。
悲しいはずなのに、ヒカリの無鉄砲な行動のことを思うと、あまりにもヒカリらしくて笑えてきてしまった。私は笑いながら泣きじゃくった。録音された音声も、私に微笑みかけているようなトーンだ。
『だからさ、ツムギ。私の能力を受け取って、この先の人生を楽しく過ごして欲しいの。思う存分、『ヒカリちゃんパワー』を受け取ってよね? ツムギはよく知ってるでしょ? ヒカリちゃんパワーがすごいことくらい』
おどけたような声で録音されたヒカリの声が響いた。聞こえる声から、自慢げな顔をしているヒカリの姿がありありと浮かんでくる。でも、よく聞けば鼻を啜るような音や、震えた息遣いも聞こえてきた。
「……なんだ、ヒカリだって泣いてんじゃんか」
ずるいよヒカリ。私のこと置いて行って私を助けたつもりになんかなっちゃって。本当にずるい。
『これから先、ツムギの未来が楽しくて明るいことを願ってるから。元気でね!』
震えた声でヒカリは叫ぶ。優しくて、明るくて、大好きな声がテープから鳴り響いた。
『世界で一番愛してるよ、ツムギ!』
音声はここで止まった。
よく晴れた冬空の下、そよぐ風の音とこすれ合うイチョウの葉の音と、私の泣き声だけが響いた。泣き疲れてしまった私は、黄色いイチョウの葉で埋め尽くされた秋葉原駅前で大の字に寝転んだ。空は、ヒカリの瞳のように澄んでいる。
私が呆然としていると、側で黙ったまま立っていた霧島がふと口を開く。
「確実に治せるかは分からないですが、託された海船ヒカリさんの生命を無駄にしないよう、あなたの病気は私が責任をもって治療します。落ち着いてからで構いません。復興省のある新宿まで向かいましょう」
霧島の声はとても優しく聞こえた。大切な人を失ったもの同士だからか、その声は励ましにも慈しみにも聞こえる。
私は霧島に答えるために一度立ち上がろうとした。しかし、私の体は思うように持ち上がらない。やはり私の病状は芳しくないようだ。
私は寝ころんだままその先の未来のことを考えた。この先も誰かと困難を乗り越え、誰かと慰め合い、誰かと愛を知り、誰かと幸せに暮らすことができるのだろうか。そしてその「誰か」がヒカリになることはないのだろうか。私のために私を裏切るなんて、ヒカリはやっぱずるいなあ。私だってヒカリのためにヒカリの意志を裏切ってみたいのに。私だって、ヒカリのために全力で身を呈してやりたいのに。
沈黙する私のことを霧島は不思議そうに見つめている。それからしばらくして、私はにやりと笑ってから答えを出した。
「分かった。一度新宿まで行くけど私のお願いを一つ聞いてほしい。私のこと置いて勝手に話進めちゃってたんだから、ちょっとヒカリに仕返ししたくなったの」
「仕返し……ですか、私にできることなら構いませんよ」
二つ返事を受けて、私はその「仕返し」を霧島に伝えた。私が思いつく、最善で最高の「仕返し」を。霧島は最初こそ私のお願いを却下したが、最終的に私の意志を尊重してくれた。
私は、かくしてヒカリに「仕返し」を決行することにしたのだ。
6
今日でミユキが死んでから三年が経つ。災害からはもう六年も経った。あれから復興省の発展は大きく進み、各地から生き残った人たちが集まってきた。今ではもうコミュニティの人数は百人近くにまで成長しており、首都の復建も着実に進んできている。それもこれも、「レミニセンス」の機能が可能にしてくれたのだ。だから今こうして私がいる東京都庁の一室にも、電気が灯っている。
小さな明かりのつくこの部屋で、私は棺で眠るミユキの頬に手を当てた。十分に腐敗処理を行っているので、変わらずミユキは美しいままだ。縫合痕ばかりの顔になっても、ミユキはいつまでも美しいミユキである。
「行ってくるよ、ミユキ」
私はミユキのおでこに軽くキスをして部屋を出た。
外ではコミュニティの人々が活発に暮らしている。ライフラインは拡充され、平和で豊かな暮らしがそこにはあるのだ。
丁度この時間都庁前の広場では、少年たちが駆け回っていた。ある少年は左足に義足をはめており、またある少年は頭部に縫合がなされている。二人とも、私がかつて治療を施した子たちだ。私は彼らへ声を掛ける。
「カナエさん、ノゾムさん、これから私は出かけるのですが、その間にレミニセンスの定期メンテナンスをお願いできますか? 日没までには帰る予定です」
「「霧島さん! 了解しました!」」
私の呼び声に、彼らは顔の向きを揃えて返事をする。相変わらず元気のよい子たちだ。
「ちなみにどこまで行かれるんですか?」
兄のカナエの方が、私に尋ねる。普段なら当てもなくぶらつく程度なのだが、今日に限っては、その答えが決まっていた。
「秋葉原です。彼女らへ挨拶しに行かないと」
私は総武線に沿って新宿から秋葉原まで歩いた。途中、お堀のところで土砂崩れが起きていたので、市ヶ谷駅からは普通の道を歩いて行った。外堀通りからはひたすら直進するだけで秋葉原にたどり着く。聖橋をくぐったところで、目的地が見えてきた。かつて世界最大の電脳とサブカルチャーの街だった、秋葉原だ。
エディオンの角を曲がり電気街通りを直進する途中に、目的のゲームセンターはある。入り口が倒木で塞がった、薄暗いゲームセンターだ。私は瓦礫をくぐって、奥へ進む。
大量のアーケードレトロゲームが置かれた一角には、建物の壁面に開いた穴から光がさしている。
そこでは、二人の少女がカプセルの中で抱き合って眠っている。
微塵も動くことのない彼女らは、まるで彫刻のようだった。既に熱を持たない彼女らだが、その表情はどこか暖かそうであった。幸せそうで、健やかな表情。
「ツムギさん。あなたがヒカリさんに仕返しをしたいからと言って、ヒカリさんを裏切って私は治療を行いませんでしたが、時々私は、その選択が正しかったのか分からなくなります。でも、こうしてあなたたちが安らかに眠っている様子を見ていると、きっと正しかったのだろうと思えるようになりました。本当は、ヒカリさんだってツムギさんと離れることが嫌なのは私にも分かっていましたから。ともあれ、お二人のお陰もあって今日も復興省は平和です。感謝いたします」
私はカプセルに手をかざし、呟いた。返事が返ってくることはないと分かっているが、二人の笑う声が聴こえてくるような気がした。
私が手をかざした部分に、ふと目が留まる。そこには、二人の写真があった。大きくピースサインを掲げるヒカリさんと、控えめに笑うツムギさん。二人がまだその写真の中で生きているような、とてもいい写真だ。
これから私には、復興省にいる人々の命を守る使命があるということを、改めて自覚した。この写真に写る彼女らのように、誰もが笑い合える世界を取り戻すというかたい意志を、改めて胸に刻めるような、そんな写真にも見えた。
「また来ます」
入り口に咲いたアングレカムの花を一輪カプセルの前に供えて、私は秋葉原のゲームセンターを後にした。隙間風に揺られる花の姿には、なぜか心が洗われるような、そんな雰囲気がこもっている。
白いアングレカムの花の姿はまるで彼女らのようだ。小さいながらも可憐で、力強く咲いている。花言葉は「祈り」で、私から手向ける花として適切だろう。
それと、そういえばアングレカムにはあともう一つ花言葉がある。その花言葉は、
「いつまでもあなたと一緒」
終
「ねぇねぇ、ツムギはさ、世界が元に戻ったら何したい?」
釣り糸を引き上げる手を一旦止めて、ヒカリは私の方を向いていた。もともと大きく丸い瞳を一層輝かせて、興味津々といった表情だ。
「うーんそうだなぁ……あんまり思いつかないし、世界が元に戻るとは思はないけど、ヒカリと一緒にいられれば、なんでもいいかな」
「おっ! 嬉しいこと言ってくれんじゃん! そうかそうか~ツムギちゃんはそんなに私のこと好きなんだなぁ~」
ニヤニヤとしながら私の脇腹を肘で小突いてくる。その動きに合わせて橋から垂らした釣り糸がぐわんぐわんと揺れた。
「ちょっと! せっかくとった魚逃げちゃうから! ちゃんと持って!」
「え? うわっ、やばっ!」
私とヒカリ、二人して釣り糸を必死に手繰り寄せる。さっきまで冗談抜かしてたのに、いきなり慌てるヒカリの様子がおかしくて、思わず笑ってしまった。それを見て、ヒカリも大きく口を開けて笑い出す。
私たちの笑い声が、廃墟と化した街に響き渡る。それ以外の音は、何もない。かつて有数の繁華街だった秋葉原の末端にあるこの万世橋の上には、今は私とヒカリしかいない。
半壊したヨドバシカメラにも、ツタにまみれた秋葉原駅構内にも、窓ガラスの割れたUDXにも、今はもう誰もいない。二人だけの退屈すぎる世界で、とっくの昔に賞味期限が切れた日常茶飯を今日もまた味わっていた。
「あはは、はぁ、はぁ……。とりあえずこんだけ捕れれば夕飯には困らないっしょ」
引き上げたかごの中には黒く大きな鯉が何匹か入っていた。ヒカリはミリタリーショップで手に入れた迷彩柄のジャケットを濡らして、かごを掲げる。跳ねた水が冷たい。
「ちょっとやめてよ、川の水臭いし冷たいんだから跳ねかさないで。ねぇ、そろそろ冷えてきたし帰らない?」
「よしっ、賛成! 早く魚食べたいし帰ろっか!」
夕飯が確保できたので、私たちは愛しの「マイホーム」に帰ることにした。
私たちの住む家は、末広町の方向へ少し歩いたところにある。そこはかつてパソコンのジャンク品を売っている店が密集していた場所だ。そんな元賑やかな路地のとある一角にある、雑居ビルの二階に、私たちは棲みついている。「マイホーム」などと呼んでいるが、元々は知らない誰かが住んでいた家だ。かつての住人はきっと大災害の影響で消滅(・・)してしまったんだろう。
それは三年前、突如として発生した未曾有の大災害だった。その災害は地震や火山噴火、洪水などのような災害ではなく、「隕石」の落下によって発生した。
あの日隕石が落ちたのと同時に、ほぼすべての人類がホログラム映像のように消滅してしまったのだ。私のおかあさんも、友達も、その時入院していた病院の先生も他の患者も、街を歩いていた知らない誰かも、みんな等しくまっさらに消えてしまった。
原因は何も分からない。みんな異世界に飛ばされたんだと勝手に思っているけれど、正解を確かめてくれるような頭のいい人たちすら、まるごと消えてしまっている。
悲しむ隙すらないくらい。あっさりと。何もかもが、今私たちの目の前に落ちている巨大な石ころに変えられてしまったんだ。
「こっから足元危ないから、ちゃんと掴まって」
崩壊した秋葉原の姿を背にして、ヒカリが私の方に右手を伸ばす。ビックカメラ前の交差点は隕石の落下地点から目と鼻の先だ。しかも大小の瓦礫で地面がガタガタなので、著しく体力のない私が通過するにはかなり苦な場所だった。
「ん、ありがと」
差し出された右手を、左の手で受け取る。ヒカリは手を握ると、歯が見えるくらいにニッと笑って力強く私を引き寄せた。この世界からたくさんの人がいなくなってから、いつもこうしてヒカリが先に立って、私を導いてくれる。それは、前の世界よりも今の世界の方がずっと幸せに思えてしまうほど、私にとっての救いだった。
「手、すごく魚臭いよ」
「うっさいわ!」
軽く私を小突いて、またニッと笑う。少しやけた肌を燦々と輝かせるヒカリの姿は、冬に咲いた向日葵のようで、場違いなほどにこの世界を照らしている。その向日葵に誘われるように、私はヒカリの方へもう半歩身を寄せて歩いていた。
十五分余りかけて歩いて、ようやく家に着いた。普通に歩ければ五分以内に着くような距離なのに、隕石によって開いた大穴を通過しなければならないので随分と遠い距離に感じてしまう。ほぼ山登りのような道のりだったので、ただ通過するだけで大きく疲れる。
「ツムギ、体調は大丈夫そ?」
「うん、大丈夫。今日は比較的調子よさそうだよ」
手を繋いだままだったので、きっと私の脈拍が強まったことに気づいているのだろう。呼吸器系の持病があるので、どうしても脈が速くなってしまう。
「一応しばらくは安静にしておこうか」
「そうだね、ありがと」
ヒカリは魚の入ったかごを台所において、私を寝室まで連れていった。二人でベッドに仰向けになって寝転がる。かつての住人は一人暮らしだったのか、私たちがいつも寝るベッドはシングルベッドだ。二人で寝るには、あまりにも狭い。
「ねぇねぇ、日が落ちてからちょっとゲーセンまで遊びに行かない?」
私と向かい合って話すヒカリの顔が、すぐ近くに見える。無邪気な表情だけど私よりも大人びていて、包み込むような優しさを含んでいる顔だ。世界が滅びても、彼女の虹彩だけは前の世界の空のように綺麗なままだった。
「いいね、行きたい!」
「よし! じゃあ決まりだ! 日暮れまでに疲れ取っといてよ?」
「分かった。じゃあさ、疲れ取りたいからアレ(・・)やって」
「仕方ないなぁ。ツムギちゃんは甘えん坊さんなんだから」
そう言ってヒカリは私の両頬へと手を伸ばす。冷たいが、慈愛に満ちた両の手のひらにすっぽり包まれる。
そしてヒカリが目を閉じると、その両手は徐々に暖かくなってゆき、ぱっと部屋が明るくなった。彼女の周りには青白い光が現れ、電気の通っていないはずの部屋の蛍光灯にも、灯りがともった。狭いベッドの上で、彼女と接している部分がみるみる暖かくなっていく。
「どう? 暖かい?」
「うん。でもやっぱ手が魚臭いかも」
「バカ!」
ギュッと頬を押しつぶされた。愛のあるその手は、青白く半透明に揺らめいている。
ヒカリは大災害が起きたあの日から、説明のできないような不思議な能力を宿していたのだ。
2
ベッドの上でうつらうつらしているうちに、窓から鋭い夕日が差していた。ヒカリは既に能力を使う前の姿に戻っており、いつでも外に出られるように、リュックサックにペットボトルやナイフを詰めていた。
「おはよ、ツムギ。そろそろ出れそ?」
ヒカリはリュックのチャックを締め、さっと立ち上がる。
「おはよう。もう出れるよ」
ヒカリのお陰で十分に休めたので、呼吸も脈も正常に戻っている。部屋着も外着も同じようなものなので、体調と身なり双方ともにいつでも出れる状態だ。
「よし、じゃあ出発しちゃおうか!」
再びヒカリに手を引かれて雑居ビルの階段を下る。やや埃をかぶったガラス扉を開けると路地は夕方と夜の境目、オレンジと紫の中間色に染まっていた。十一月下旬の夕日は夏のときよりも澄んでいて、寂れた看板の影を濃く長く伸ばしている。
「もうすっかり冬だね」
「そうだねぇ、まぁでも暑いよりかマシかな。私は自分から涼しくはできないから」
そう言ってヒカリは繋いでないほうの左手を前に突き出すと、一瞬その手を青白く光らせた。
「ヒカリちゃんパワーがあれば冬でも暖かいもんね」
「その名前ハズイからやめてよ」
照れ隠しのように、早口でヒカリは言った。
ヒカリは大災害が起きる前までは、ごくごく普通の女の子だったらしい。災害が起きた時、ヒカリも他の人たちのように消滅しかける感覚がしたらしいが、目が覚めると体中に青白い光がまとわりついたまま、ヒカリだけがこの世界に取り残されていたそうだ。その時から、ヒカリは特別な「何か」を宿していた。
「でもその力って何なんだろうね」
「……ね、ホントに何なんだろうなぁ~。未だによくわかんないけど、とりあえず暖かいのと電気が使えるのは便利でいいよね」
自分の左手を見つめて、グーパーしながらヒカリは話す。彼女自身もその能力がどういったものなのかは分かっていないが、どうやらその能力に適応する才能はあったらしく、「ヒカリちゃんパワー」を上手く使いこなしているみたいだ。左手をぼうっと見つめたまま、ヒカリが言う。
「まぁ役に立つ能力でよかった気がする。これがもし空を飛ぶ力だったとしても、多分何の役にも立たなかっただろうな」
「そうかな、もし空を飛べたらこんな疲れる道を何回も歩かなくて済むかもしれないけどね」
「はいはい、何度も歩かせてごめんなさいねぇ~」
私の言葉に対して、ヒカリは皮肉っぽく言って見せた。意地悪な言い方だけど、可愛らしく頬をぷくっとさせている様子がおかしくて、また笑いそうになってしまった。私はヒカリにバレないよう、口角の上がった顔を隠すようにうつむきながら歩いた。
目的のゲームセンターは、電気街の通りを万世橋側に戻る途中にある。よく分からない免税店とフィギュア売り場の間に狭い入口があり、そこのエスカレーターをのぼると入れる、アキバの中でも穴場的なゲームセンターだった。今は入口前の街路樹が倒れ建物を貫いてしまっているので狭かった入口の方は塞がり、建物に開いた大穴が新しい入口になってそこから入れるようになっている。
私たちは倒木の上を伝って建物の中に入った。三年もの間倒木が放置されているので、木のあるところからツタや草花が伸び放題になっている。真っ暗なアーケードゲームの画面にツタが生えているなんて、こんな世界にならないと見れない光景だろう。入院していた時、よく植物の本を読んでいた私にとってはかなりお気に入りの場所だ。
「おっ! ここに生えてたやつもう花開いてんじゃん!」
前を歩くヒカリが、倒木の上に花が咲いているのを見つけて興奮していた。
「すごいね! 多分これアングレカムだよ。蘭の一種で日本だとすごく珍しいやつだった気がする」
私の説明にヒカリは一層目を輝かせ、白い花を見つめる。
「ツムギよく知ってるね! 花言葉はなんていうの?」
「『祈り』だったかな? 忘れちゃった」
アングレカムの花言葉が祈りという言葉で合っていたかは定かではないが、今こんな世界で綺麗に咲いている花は、確かに誰かの「祈り」を背負って咲いているように見えた。
「綺麗だなぁ。このまま元気に育つといいね」
ヒカリの純粋な言葉に私はただただ頷いて、その祈りの花にペットボトルの水をかけておいた。
「ねぇねぇ、ツムギ! せっかくゲーセン着いたんだからゲームしようよ!」
私が花に水をやっていると、突然思い出したかのようにヒカリは立ち上がった。どうやらヒカリは遊びたいゲームを見つけたらしく、ツタに覆われた筐体の中でも一番奇麗なものめがけて走り寄って行った。私が「電源はどうするの?」などと野暮なことを聞く前に、既にヒカリは筐体に向けて力を込め始める。バチバチと周辺の空気が痺れ始めると、徐々に暗いスクリーンが端から順に起動してゆく。ブラウン管のような円弧を帯びたスクリーンからは、レトロゲーム特有のピコピコした音が鳴り出した。
「どうよ? 『ヒカリちゃんパワー』は」
振り返ったヒカリは、得意げな表情だ。早くゲームをしたくてうずうずしている。
「最高。さすがヒカリ」
私はヒカリの隣の椅子に座り、ゲーム画面と向き合った。
それからしばらく、私たちは色んなゲームをして遊んだ。一対一の格闘ゲームや宇宙人からの侵略を防ぐシューティングゲーム、巨大ロボを操縦して戦うゲームにレーシングカーで競い合うゲームなど、そこにある限りのゲームを遊びつくした。操作方法すらロクに分からなかったけど、ヒカリとするゲームはどれも最高に楽しい。
これほど非現実な今の世界を生きていても、私たちはゲームの中の非現実を十分に楽しむことができるんだ。
ほどなくして、私たちはほぼすべてのゲームを遊びつくした。あまりに楽しんでいたので、外はすっかり暗くなっていた。もう十一時を過ぎたぐらいだろうか。月明かりに照らされた倒木や花々がおぼろげな白に輝いている。
「楽しかったね。もう遅いし帰ろうか、ヒカリ」
「そうだね。……よいしょっと。行こうか」
私に呼びかけたヒカリがすっと立ち上がる。出口の方へ向かったところで、突如ヒカリの動きが止まった。
「……っ!」
何かを見つけて、ヒカリは素早く身を屈める。明らかに緊迫した空気がその場に流れ出した。入り口側に何かがいるのかもしれないので、私も息を殺してヒカリの様子を伺う。すると向こうの一点をじっと見つめるヒカリが、極限まで絞った声で私の耳元にささやいた。
「人がいる。男の人。しかも銃を持ってる」
私は初め、その言葉が信じられなかった。災害が起きてからの三年間で見たことがある人間はヒカリを含めて四人程度で、その誰もが「普通の人」に見えた。だから、今になって銃を持つような人がいるということはあり得ないように感じられる。しかし、ヒカリの視線は真剣そのものだったので、どうやら本当のようだ。
銃をもった男は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。聞こえてきた音は複数で、うっすら会話のような音も聞こえた。もしかしたら一人だけではないのかも知れない。私とヒカリは、心臓の音が重なり合うほど身を寄せ合って「何か」が来るのに備えた。
足音がゲーム筐体を挟んで一メートルくらいのところまで迫ってきている。男がもし角を曲がれば、私たちは見つかってしまう距離だ。
「もうこっちまで来る。ヤツがこの角を曲がった瞬間に私が捕まえるから、ツムギは隠れてて」
私が制止する隙も無く、ヒカリは勢いよく筐体の陰から飛び出した。予備動作すら見えぬ速さで、ヒカリの左足が標的を捉える。
「ぐわっ!」
飛び出したヒカリの蹴りは相手の手元に直撃した。突然の攻撃に、男は持っていた機関小銃を勢いよく遠くへ吹っ飛ばしてしまった。これで男は武器を持っていない。その瞬間をヒカリは逃さなかった。
「おりゃぁぁぁ!」
武器の飛んだ方向に気を取られている男の首元に、ヒカリは飛び掛かった。右腕を伸ばし、ラリアットをするような姿勢を取る。わずかに男は反応が遅れ、ヒカリの右腕が首元にヒットする。その勢いのままヒカリは男の後ろへぐるりと回り込み、首を絞めるようなポーズで静止した。
「ぐっ……誰だお前は!」
抑え込まれた男が声を発した。聞こえてきた声は想像していたよりも高く、幼く感じる。その顔をよく見れば、男はまだ十二歳程度の子供だった。私もヒカリも一瞬動揺したが、慄いている暇もなく、鋭い声と共に再び緊迫が帰ってくる。
「動くな!」
筐体の裏側、倒木で開いた入り口に近い方から別の人間の声が飛んできた。私から見える範囲で三人、全員が銃を構え、ヒカリの方向へ銃口を揃えている。相手はやはり一人ではなかったようだ。対するヒカリは依然、幼く見える男を人質に取る形で止まっていた。銃を持つ相手へ向けて、ヒカリが声をあげる。
「そっちこそ誰なの? 先に銃をおろして」
ヒカリの言葉にも相手は反応せず、沈黙と膠着が続く。私にはこの一瞬の膠着が永遠に感じられた。ヒカリを睨む銃口が照準を外すまで、生きた心地がしなかった。
「銃を下してください」
長い膠着は、知らない男の一声で終わりを迎えた。銃を持った三人がその男の一声で一斉に銃をおろす。
月明かりで妖しく光る建物の入り口から出てきた男は、どこか冷酷な雰囲気を纏いながらこちら側へ向かって歩いてくる。長身で痩せ型の中年に見えるその男は、崩壊後の世界ではまず見ないような黒いスーツを着ており、その上から厚手の黒いコートを羽織っていた。
「お久しぶりです。海(み)船(ふね)ヒカリさん。復興省の霧島クニムネです。こちらは銃を下したので、まずは彼を解放してあげて下さい」
黒服の男、霧島はヒカリの名前を知っているようだった。霧島と名乗る男の呼びかけに応じたヒカリは少年を解放し、私のもとへ駆け寄る。無感情にヒカリを見つめる霧島に対して、ヒカリの視線には明らかな敵意が含まれていた。普段優しくて朗らかなヒカリの、これほど怒気のこもった顔を見るのは初めてだった。ヒカリが、いつもより低い声で話し出す。
「……何しに来たの。私はもうそっちに戻るつもりなんてないから」
霧島は終始感情の読み取れないような表情をしていたが、その目からはどこか焦燥のようなものが感じられた。
冷静を装っていながら、冷静さを欠いている。
「私も手荒な真似はしたくないので、海船さんには協力していただきたいのですが……。まずは一度、私のもとに戻ってゆっくり話し合いませんか?」
落ち着いた声の内側に、苛立ちのようなものが見える。霧島という男とヒカリの問答の内容が、私にはほとんどわからなかった。それでも私には、この霧島クニムネという男とヒカリにかつて何らかの関係があって、今霧島はヒカリのことをある組織に戻そうとしているということが、なんとなくわかった。
霧島はゆっくりとこちら側へ近づきながら口を開く。
「今私たちは新宿の東京都庁に新たな中央政府を建設しています。あなたが中央にいた時に作成中であった『レミニセンス』もすでに完成しています。海船さん、あなたの能力さえあればこの世界の、少なくとも旧首都東京の再建は可能になるはずです。力を貸していただけませんか?」
『レミニセンス』という単語を聞いて、ヒカリは目を見開いた。話されている内容の一切が分からないが、何か大きなことに巻き込まれているような、嫌な予感がした。すると不審に思っていた私の存在に、霧島が気づく。
「あなたも、中央政府のもとまで来ていただければ、安全を保障します。是非、ご一緒に」
霧島は人工的な笑顔を私たちに向けて、手を差し伸べた。その手の付け根には大きな縫合の痕があり、手首から先は義手である。
ヒカリは差し出された霧島の右手には目もくれず、相手の眼孔を睨みつけたままだった。
近づいてくる霧島に聞こえぬよう、ヒカリは押し殺した小さな声で私にささやいた。
「ツムギ、逃げるよ。私が合図したら目つぶって私につかまって」
霧島と私たちの距離が片腕の間合いまで詰まる。次の瞬間、ヒカリが叫んだ。
「ツムギッ!」
叫ぶ声と同時に、私はギュッと目を瞑りヒカリにしがみつく。周囲の空気にバチバチと痺れるような感覚が走ると、ヒカリは私を抱きかかえて勢いよく走り出した。
「待ちなさい!」
背後から霧島の声が聞こえたのと同時に、ヒカリの体が発熱し出す。
「くらえっ!」
ヒカリの声と共に、目を瞑った私ですら眼球が焼き付いてしまいそうなほど強大な光が発生した。触れているヒカリの体が熱いので、恐らくヒカリが能力を使ってゲーム筐体から強い光を発生させて目くらましを行ったのだろう。少し離れた低い地点から、呻く霧島とその手下の者たちの声が聞こえてくる。
「くっ……! 駄目だ! 待ちなさい!」
霧島が拳銃をこちらへ向けていた。何発か引金を引いたが霧島は目を瞑ったままなので、暴発した弾丸は見当違いな方向へ放たれる。
「ツムギ、気にしちゃ駄目! 走るよ!」
私は目を開き、ヒカリに言われるがまま走り出した。倒木の上を転がるように伝って外へと脱出する。
外に出てから私たちは、瓦礫で通りづらい道を命からがら走った。私たちの家までの道のりは厳しかったが、ヒカリのアシストのお陰で何とかゲームセンターから離れられた。幸い、まだ追手の姿は見えないみたいだ。ひとまず逃げられたようだったが、何も理解できないまま走らされたので、私の頭はパニック状態だった。
「ねぇ……! あの人たちは……誰なの! なんで……逃げ……逃げなきゃダメなの!」
走って息を切らしながら質問する私に、ヒカリの動きが止まる。そして呼吸が乱れ上下する私の肩を抱き寄せたヒカリは、私を落ち着かせるようにゆっくりと言った。
「今まで黙っててごめん、ツムギ。あの人たちは私の能力を狙ってる人たちなの」
「それってどういうこと……? いきなりすぎて分かんないよ!」
私の言葉をはぐらかすようにおちゃらける様子はなく、ヒカリの態度は至って真剣だった。
「あの黒づくめの男の人、霧島クニムネは首都再建のために私の能力を狙ってる」
一度抱き寄せた私の両肩に手を置いて、ヒカリは私と見つめ合う形になった。そして、真っ直ぐな瞳でヒカリは言う。
「私はあの男に殺されかけて逃げてきたの」
3
あれから一時間以上経っても、追手の気配は感じられなかった。かつて都心だったとはいえ、はるか昔に電力供給はストップしているので、外は月の落ちた今、五等星すら見えるほど真っ暗だ。これほど暗ければ、霧島たちは一旦撤退せざるを得ないはずである。
私は家に着いてからベッドに倒れこみ、そのまましばらく動けなくなった。無理やり動かした肺に痛みが走る。どうしようもなく苦しくて、ただひたすら悶える他なかった。
「ツムギ、大丈夫? ゆっくり呼吸しよう」
ヒカリはしばらく台所のところに行っていたが、すぐに枕元に戻ってきてくれた。
「……うん。少し楽になった。……まだ苦しいけど」
咽ながら話す私をヒカリが心配そうに見つめる。それからヒカリはベットに入ってきて私の頭を撫でながら語りかけてくれた。
「お昼にとってきた魚を焼いたやつとお粥作ったから、後で食べよ。一旦落ち着いてからでいいから」
無言で頷く私をそっとヒカリが抱きしめる。彼女と触れた部分が暖かく、傷を癒してくれるような優しさに包まれていた。私の耳元近くで、ヒカリが話し出す。
「さっきはごめんね、いきなり走らせちゃって。私、霧島の顔を見た時、殺されそうになった時のこと思い出しちゃって、冷静でいられなくなっちゃった」
「そのことは気にしなくて大丈夫だよ。……それより、ゲームセンターで霧島と話してたこと、教えてくれる? 私、何も分からなくて」
私の言葉にヒカリは言葉を詰まらせたが、一つ息を吐いてから話し出した。
「そうだよね……。私、いつか話そうとは思ってたんだ」
優しいヒカリの手が私の頭から頬へと移動する。性格は活発なヒカリだが、その指先は繊細で美しく、それでいて優しさを有している。私を何度も導いてきたこの手は、ただただ優しかった。
月明かりがさしたこの部屋で、ヒカリだけが言葉の続きを紡ぐ。
「大災害が起きてしばらく彷徨ってた私は、最初に霧島が組織してる『復興省』って連中に拾われたの。霧島たちは災害で生き残った数少ない人たちで組織を作って、この世界を再建しようとしてた。拾われてからしばらく、私は霧島のもとで生活しながら、首都再建の手伝いもしてたんだ。私自身も最初はこの世界を元に戻すのに賛成だったたし、生き残った人たちも技術を持った人が多くて、本当に東京の再建くらいできるんじゃないかって思ってたの」
私は滔々と語られるヒカリの言葉に耳を傾ける。微かに震えているヒカリの体を抱き返して、続きを聞いていた。
「……でもやっぱり、簡単に再建なんて不可能だった。東京という大都市のインフラを復旧させるには莫大なエネルギーが必要になるし、仮設で作ってた発電システムも、一つのコミュニティを賄うだけで精一杯だったんだ。だから私は、霧島たちの前で自分の能力を使ってしまったの。私が持っているエネルギーなら、あらゆるインフラを復旧させることができると思ってね」
「じゃあ、ヒカリの力で再建は前進したんじゃないの?」
私の質問に、ヒカリは無言で首を横に振る。
「確かに私の能力で色んなエネルギーを賄えたけど、結局それって一時的なものに過ぎなかったの。霧島が言うには、私のこの能力は大災害の副産物らしくて、その厄災の神秘を余すことなく使うには、私の体からじゃ出力しきれないみたい」
私はここまでのヒカリの話で、なんとなく推察が付いてしまった。
「じゃあもしかして霧島が言ってた『レミニセンス』っていうのは……?」
「うん、私の代わりにエネルギーの出力を行う機械のことだよ。私が向こうにいた時に、霧島が私の能力に目をつけて配下の技術者たちに作らせたマザーコンピューターシステムのこと。配線を巡らせさえすれば、崩壊前の世界みたいにどこでもエネルギーを利用できちゃうの。それが完成してるってことは、私の能力さえ手に入れば、少なくとも東京全土のインフラを復旧させることができるってことになるね」
私がいつもヒカリに助けられているように、霧島や中央政府にいる人たちも、ヒカリの能力の絶大な恩恵に救われてきたのだろう。それは素晴らしいことだし、たくさんの人が幸せに暮らせる未来があるなら、私もインフラの復旧には賛成だ。でも、私にはどうしても腑に落ちないことがあった。
「……でもさ、もしヒカリが霧島のところに戻って、『レミニセンス』って機械に能力を預けたら、そのあとヒカリはどうなるの?」
私の質問に、ヒカリは固まった。さっきまで焦点が合っていたヒカリの視線が、虚ろに泳ぎ出す。ヒカリの言葉を聞かなくても、世界が凍り付いたようにも感じられるこの沈黙が私の質問の答えだった。
「……分からない。……けど、多分私の意識は戻って来ないかな。だって、霧島は確かにあの時私を殺そうとした。私が意識のある状態では能力を抜き出せないから、合意の有無を言わせる前に殺そうとしたんだと思う」
私は、ヒカリの震える表情が耐えられなかった。普段は明るいヒカリだから、辛い表情を見ていると、呼吸がいつもの何倍も苦しくなった。しばしの沈黙が響くこのベッドルームで、お互いの孤独や恐怖を埋め合わせるように私たちは身を寄せ合う。
ヒカリは私にとって母のような存在であり、恋人のような存在だ。いきなり現れた知らない誰かになんか奪われたくない。
ヒカリに守られたいし、ヒカリを守りたい。
「……ここから逃げよう、ヒカリ。このままここにとどまってたらまた霧島たちに見つかっちゃう。どこか遠くの山の方で、二人でゆっくり過ごそうよ」
ヒカリと過ごせるならどこに行ってもいい。今考えつく最善の策を私は何とか模索する。しかし、ヒカリの返答は意外なものだった。
「それもいいかもね、ツムギ。……でも私はこのままここに残っていたいかな」
「なんで? このままだとヒカリが危ないんだよ!」
「確かに命が狙われてるのは怖いけど、これから遠くに移動するのはそれ以上に危険なんだ。災害から何年か経って、使われなくなったガス管が破裂してたり、隕石のせいで地割れを起こしてたりするから、道のりは相当厳しいと思う。私がいくら歩けても、ツムギの体力の方が心配だよ。移動の途中でツムギの体に何かあったとき、私ひとりじゃ助けられないかもしれない」
私と向き合って話すヒカリのまなざしは、いつもより真剣で、それでいて優しく見えた。その澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。
それからヒカリは、柔らかく私のおでこにキスをして続けた。
「それにね、ツムギ。私はツムギのことが誰よりも大好きだから、私にとってここでの生活が他にはない宝物なの。このベッドで寝っ転がったり、万世橋で魚釣りしたり、ゲーセンに行ったり、崩壊した後の街を散策したり、ツムギと一緒に楽しい思い出いっぱい作ってきたじゃん。多分ツムギと出会えなかったら、こんなに楽しい気持ちなんて味わえなかったと思うんだ。だからここから逃げないし、霧島たちなんかにさらわれたりもしない。私はツムギと一緒に居たい」
ヒカリの表情に、いつの間にか迷いがなくなっていた。「一緒に居たい」という思いは私と同じなんだと、あらためて実感した。
「……分かった、一緒にここに残る。私も、ヒカリと一緒に生きたい」
「ありがと、ツムギ。迷惑かけてごめんね。もう遅い時間だから、お夕飯食べて寝ちゃおっか」
それから私たちは少し冷めてしまったお粥と焼き魚を食べて、体を洗ったら再びベッドに入った。ドッと疲れた今日という一日を、ここでまた締めくくる。そして眠る前に、私たちは軽くキスを交わして、愛を確かめ合った。いつも興奮して肺が苦しくなってしまうが、それ以上に心はこの上なく満たされていた。
人々が消え去った世界に取り残された私たちは、こうやって愛を知った。本当は知った気になっているだけなのかもしれないけど、私たちにはこれで十分だった。先に寝付いたヒカリの柔らかな顔を眺めてふと思う。
二人で寝転がるシングルベッドの上にしかない愛の形も、この世界にはあるのかもしれない。
4
その日の朝、私たちはすさまじい轟音とともに目を覚ました。決してボロくはないはずのこの雑居ビルですら、音を立てて軋むほどに強い地震が発生したのだ。隕石落下の大災害以降、気候変動や大地震の兆候は何度か見られていたが、これほどまでに大きな地震は珍しかった。私とヒカリはお互いの身の安全を確認してから、外の様子を確認するために家を出た。
「うわぁ……! すんごい地割れしてる。一応危ないから看板の下は通らないようにしよっか」
ヒカリが先に立って街を歩く。電気街の大通りには、道を縦に分断するように大きな亀裂が入っていた。
幸い通行不能なほどの大きな溝はできておらず、私たちは家から十分弱でヨドバシカメラの前に着いた。ヨドバシカメラは隕石の影響で元々壁が崩落しているので、地震で入り口が塞がれていないかを確認したかったのだ。ここが利用できなくなると、生活に必要なあれこれを買い替えられなくなってしまう。……まぁ買ってはいないんだけど。
「とりあえずヨドバシカメラの方は大丈夫そうだね。……あ、でもこっちはひどいなぁ」
私が指さした方向には昭和通りがある。そこに沿うように高速道路が走っていたのだが、どうやらこっちは地震で完全に崩落してしまったようだ。もともと隕石が直撃していた箇所の一つだったので、全壊も無理はない。ヒカリが遠くを見るように目を細めて言う。
「ありゃー、随分派手に崩れたねぇ。一応あっち側も見てみようか」
私たちはヨドバシカメラ横の道を進む。学習塾のある建物に差し掛かったところであるものを見つけ、私たちは思わず声を上げた。
「……あっ!」
そこには全身血まみれになった二人の少年がいたのだ。すぐに駆け寄って安否を確かめる。
「瓦礫の下敷きになってる! 早く助けないと!」
ヒカリの叫び声に、少年の片方が反応した。どうやらまだ意識はあるようだった。
「……助けて下さい! お願いします! せめて……せめて弟だけでも」
「大丈夫⁈ 今助けるから待っててね!」
ヒカリはすぐさま近くに停めてあったバイクに手をかけ、能力を発動する。たちまちバイクにエンジンがかかると、そのバイクを少年たちの近くまで寄せて、近くに落ちていたごみを覆うためのネットをタイヤと瓦礫両方に引っ掛けた。
「はぁぁっ!」
そしてヒカリが両手を青白く発光させると、すさまじい勢いでタイヤが回転し出す。バイクの車輪にネットが勢いよく巻き込まれ、二人の少年たちにのしかかっていた大きなコンクリート片が彼らを解放する。その隙に私は、苦労しながらなんとか二人の少年を安全なところまで引きずり出した。
近くまで来て初めて気づいたが、意識がある方の少年は左足が完全に折れており、痛々しくひしゃげていた。意識のない方の少年も頭を強打したらしく、顔や髪を血で真っ赤に染めている。こっちの子は瀕死であった。
「弟を……ノゾムを助けて下さい」
私の方を真っ直ぐ見つめて、意識のある方の少年は言う。そう言う少年も、足からの出血が止まっていなかった。
「このままだと二人とも多量出血で命が危ないから、一旦治療できるところまで運んであげよう! ツムギは無理しないでいいから、できるだけこの子達のそばで支えてあげて」
ヒカリの言う通り、このままではどちらの命も助からない。私たちは、一度応急処置をするために、彼らをヨドバシカメラの中まで運んでいくことを決めた。ヒカリは意識のない子を担ぎ、私は左足の折れた子の方を支えて、お互いボロボロになりながら進んでいった。
ヨドバシカメラに入って、すぐに彼らの止血にとりかかった。私たちは売り物だったベッドに少年たちを横たえて、傷口やその周辺を丁寧に拭いてあげる。消毒液もガーゼも売り場に存在するので、止血にそれほど時間はかからない。
手当が完了してから、私は意識のある子の方に話を聞いた。名前はカナエというらしい。意識が無い方の子が弟のノゾム。十二歳と十歳の兄弟だ。カナエ君とノゾム君は災害直後、二人で秋田の山奥に暮らしていたのだが災害から二年で生活に限界が来たらしく、自分たち以外の生き残った人を探すために都市を目指して旅をすることを決意したそうだ。道中で作ったのか、二人とも乗用車のホイール部分でできた盾と鉄パイプの棍棒を装備していた。
「ここに来るまでに、いろんな都市を目指しました。仙台、前橋、宇都宮……、全部通りましたが、どこへ行っても生きた人間とは出会えませんでした……。大宮に着いたときにようやく見つけた人も、既に首を吊って自殺した後でした。苦労して東京までたどり着いたんですが、地震に巻き込まれてしまい、弟はこんな目に……」
カナエ君は弟の方を向いて悲し気な顔をした。頭部の止血は完了したものの、未だノゾム君の意識は戻らないままだ。
「頑張ってここまで来たんだね。二人ともすごいよ」
ヒカリがカナエ君の背中をさすって励ました。私もヒカリの手の上から、カナエ君の背中に手をかざす。多分災害で家族も失って、この兄弟ふたりぼっちで孤独な旅路を進んで来たのだろう。その道中のことを思うと、いたたまれない気持ちになった。
静かに涙を落していたカナエが、堰を切ったように泣き出す。
「僕の足は二度と使えなくたって構いません……。でもノゾムは、どうかノゾムのことだけは助けてあげて下さい! お願いします!」
「……うん。安心して。ノゾム君のことも、カナエ君のことも必ず助けるよ」
ヒカリは何か決心したように立ち上がり、少年たちに向けて力強く声を掛ける。
「ツムギ、私この子たちを復興省のところに送ってあげようと思う」
私はヒカリのその言葉に耳を疑った。
「それって霧島のもとに行くってことでしょ⁈ 駄目! そんな危険なことしたらヒカリがどうなっちゃうか分かんないじゃん!」
「確かに危険は伴うよ。でも、もし私が行かなかったら、多分ノゾム君の命は助からない。復興省になら医療を施せる機材も技術もそろってるし、その後の生活環境も十分整ってる。それに、カナエ君とノゾム君はここに来るまでに大変な思いを何度もしてきたと思うんだ。だから、復興省に二人を預けてあげたい。これからの二人の生活が、少しでも安心できるようにしてあげたいの」
ヒカリの言っていることは確かに正しかった。私も、カナエ君とノゾム君を見捨てるつもりはない。でも、それ以上に私は、ヒカリを失いたくない。
「分かった。二人を復興省に届けてあげるのは許す。でも私も連れてって」
家具売り場だったヨドバシカメラの一角に、沈黙が走る。ヒカリは少しうつむいて考えてから口を開いた。
「……ごめん、それはできない」
「なんで! 私だってヒカリのことが心配なんだよ!」
「そんなこと今はいいんだって! 頭から血を流してたんだよ? 少しでも早くノゾム君のことを治療してあげないと助からないんだよ!」
ヒカリは私に対して𠮟りつけるように言った。今まで聞いたことのないような、きつい声。いくらノゾム君のためだと言っても、私の心配する気持ちを分かってくれないヒカリに対して少しだけ腹が立つ。
「じゃあ私は足手まといなんだ」
「そんなこと言ってないじゃん! ……私だってツムギの体のことが心配なの。お願い」
ヒカリの言葉に、何も言い返せなかった。私は力なく、ヒカリから視線を逸らす。
逸らした視線の先に、二人の少年の姿がある。眠るように目を瞑ったままのノゾム君を、カナエ君は泣き腫らした顔で見つめていた。その姿を見ていると、ヒカリを引きとめることができなかった。私だけじゃなくて、カナエ君もこの孤独な世界で支えを失うことが怖いんだ。
結局、ヒカリのことを止めるわけにはいかなかった。
「……分かった。私はこっちで待ってるから、二人を送ってあげて」
「ありがとうツムギ。先に家に戻ってて」
建物の出口へゆっくりと向かうヒカリの背中に、私は何の言葉もかけることができなかった。
ヨドバシカメラを出るとヒカリはノゾム君をおんぶし、カナエ君の手を引くようにして歩きだした。霧島の言葉通りなら復興省は新宿にあり、生存者のコミュニティもそこに形成されているはずだ。秋葉原の駅から総武線の上を辿っていけば新宿まで一本道でたどり着けるので、私はヒカリと二人の少年をすぐそこの秋葉原駅中央口まで見送ることにした。
「じゃあ行くから、ツムギはしっかり家で休んでね」
ヒカリの声音は優しかったが、私はさっき言い合ったことが忘れられず、素直にヒカリの目を見ることができなかった。正直、ノゾム君のためにも納得せざるを得なかったけれど、私を置いていく選択をしたことには不服だ。でも、いまさら引きとめることもできなかった。
薄暗くて誰もいない、がらんとした改札に私以外の三人が吸い込まれていく。彼女らの背中が小さくなっていくのを見ているのが辛くなって、思わず私からヒカリに声をかけた。
「……夜までに。夜までに帰ってきてよね」
ヒカリは遠くで振り向くと、少しだけ間を開けてから返事をした。
「……うん! 私も霧島たちには気を付けるから。二人のことは任せてね! 行ってくるよ!」
いつものヒカリの、優しくてはつらつとした声だった。
ヒカリたちはエスカレーターのある角を曲がると完全に見えなくなった。だだっ広く荒廃した秋葉原の駅にはもう私だけしかいない。今になって、のどに詰まっていた言葉を呟く。
「……行ってらっしゃい」
私はヒカリたちの無事を祈ることしかできなかった。
家に着くと、真っ先にベッドに倒れこんだ。いつになく呼吸が苦しい。ノゾム君たちを救出するために相当体力を使ったからだろうか。それともヒカリと言い合いをしてしまった興奮状態のせいだろうか。原因は分からないけれど、胸が痛くて、咳も止まらなかった。
咳を押さえようとすると、私の手は何か生暖かいものにまみれる。
「……うっ」
血だ。私の病状はやはり進行していた。いままでヒカリの介抱のお陰もあって何とか過ごせていたが、病気の進行自体は止められていないようだ。
「うわぁ……。シーツに血ついちゃった。ヒカリ怒るかな……」
昨日までヒカリが寝ていた部分に、私の吐血がシミになって広がる。私はそのシミの部分を掴んで自分の身に寄せた。でもそこに、ヒカリのぬくもりは感じられず、ただべたついた血だまりと埃をかぶった部屋の匂いしか残っていなかった。
どうせ夜には帰ってくるはずなのに、少し一人になるだけで恐ろしいほどの孤独を感じる。早くヒカリに帰ってきて欲しい。わがままを言ってしまったことを許して欲しい。いつ死んでしまうか分からない私のことを置いて行かないで欲しい。
そして、私のことを抱きしめて暖めて欲しい。
私はヒカリのことだけを考えながら、呼吸を落ち着かせるために眠りについた。ヒカリのいない寝床は、いつになく寒く感じた。
5
あれから三日が経っても、ヒカリは帰ってこなかった。最初の一日目、私は肺が痛くて動けなかったが、ただただヒカリのことをずっと心配していた。焦る気持ちは止まらなかったが体の一切を動かすことができなかったので、その日の私はどうすることもできなかった。
体調が少しだけ回復した二日目、私は復興省まで向かおうか考えたが、結局「きっと霧島と和解したのだろう」とか「帰ったら私を置いて行ったことを叱ってやろう」とか、ヒカリの安全を信じることで自分の不安を誤魔化すことしかできなかった。
本当は、頭の中では「最悪の事態」を想像してしまっている。でも、その可能性を認められない私は、咄嗟に動き出すことよりも体力の回復を優先する選択をするしかなかった。
ただ、私の中の稚拙な合理化にもついに限界が来た。これ以上、ヒカリの帰りを待つことはできない。ヒカリを見送ってから三日目の今日、私は新宿の都庁へ向かうことを決意した。
リュックサックに最低限の荷物を詰めて家を出る。せいぜい一つ隣の区に移動するだけだが私にとっては途方もない移動なので、できるだけ身は軽くしておいた方が良い。水、ナイフ、包帯、ライター、それからお守りの代わりにヒカリと私の映った写真を持っていくことにした。いつだったかヒカリとヨドバシカメラを散策したときに、おふざけで撮ったチェキプリントだ。歯を見せて笑うヒカリが、カメラに向けて大きくピースサインを掲げている。少しの間見ていないだけで、こんなにもこの笑顔が恋しく思えてしまう。
「待ってて、ヒカリ」
私はヒカリたちの歩いた道をたどるため、秋葉原駅の電気街口を目指した。昨日も通った道のりなのに、一人で歩くとかなりきつい。体調が回復したとはいえまだ万全ではないようだ。駅に向かうだけでこれほど体力を消耗してしまうので、本当に新宿までつけるかが心配になってくる。でも、ヒカリのことを思うと脚を止められるほどの余裕はなかった。
風の音だけが響くかつての繁華街秋葉原を、たった一人で歩いた。電気街通りには隕石による瓦礫と、黄色いイチョウの落ち葉と、虫が這うスピードで歩く私だけが取り残されている。隣を歩く存在が無いだけで、孤独の解像度が格段に上がったように感じられた。私の心拍はすでに異常なまでに上昇しており、歩いているだけで呼吸が苦しかった。その痛みを和らげるぬくもりが無いことを、冷えた左手が嫌というほど教えてくれる。
電気街口手前の広場に差し掛かったところで、私は一度その歩みを止めた。遠くの、駅の改札から人が出てくるところが見えたのだ。
ヒカリが、ヒカリが帰って来たに違いない。痛みも苦しさも寒さも忘れて、私は駅の方へと駆け出す。
「……ヒカリッ! ヒカリー!」
三十メートル先、駅の改札へ向けて手を振る。しかし次の瞬間、私の振った手は力なくすとんと降ろされる。
日陰だった改札から日の差すところまで出てきた人物はヒカリではなく、黒いスーツに黒いコートを羽織った男だった。
復興省の霧島クニムネであった。
駅から出てきたのが霧島であると分かった瞬間、私は膝から崩れ落ちてしまった。ヒカリは、霧島に捕まったんだ。思い描いていた最悪の事態が、今まさに実現してしまった。
ヒカリとはもう会えないの? そんなの、嫌だ。
「……ヒカリ」
ポケットに突っこんだままの写真を取り出して、笑った顔のヒカリと目を合わせる。ゆっくりとこちらへ向かってくる霧島の方にはとても目を合わせることができなかった。きっと恐怖からでも、気まずさからでもなく、最悪の現実を受け入れないためにそうしたんだと思う。
ヒカリの笑顔を見ていると、楽しかった思い出たちがフラッシュバックする。でもそれと同時に、大切な人を失った絶望が私の体を蝕んでゆく。
笑顔の写真を見ているはずなのに、涙を抑えることができなかった。
「あなたがツムギさんでお間違えないでしょうか?」
気が付けば、霧島は目の前まで来ていた。低くハスキーな声で霧島が尋ねる。
「……」
私はすすり泣いたままへたり込み、何も答えられなかった。ヒカリを迎えに行くことも、助けることも、抵抗することもできない無力さが悔しくてたまらなかった。持っていた写真が力の抜けた私の手から離れ、霧島の足元に落ちる。それを霧島はそっと拾い上げて、写真と私を交互に見ていた。
そして、霧島は何かを悟ったような表情をすると意外な言葉を口にした。
「ツムギさん、今日私はあなたへヒカリさんからの伝言を預かったので、それを伝えるためにここへ来ました」
私は顔を見上げた。白髪交じりで真面目な顔つきの霧島は、初めて見た時よりもやつれたような表情であった。
「伝言を伝える前に、先に私からあなたへ一つ謝らせて下さい。初めて会ったあの夜、私はあなたたちのことを撃ち殺そうとしてしまいました。正直あの時の私は海船さんの、海船ヒカリさんの能力を手に入れることで必死になっていて、冷静さを欠いていました。命を救うために、人の命を奪おうだなんて……。本当に申し訳ありません」
謝罪の言葉と共に、霧島は深く深く頭を下げる。私は霧島の想像だにしなかった言動に動揺してしまった。
「……それは……どういうこと」
私の問いかけに、霧島は淡々と答える。
「私にはミユキという妻がいました。あの大災害のとき私と妻は消滅することなくこの世界に生き残ったのですが、ミユキに隕石が直撃してしまったのです。ミユキは瀕死でした。何とかしてミユキの治療をしましたが、私は医者ではないのでできたことは調べて分かる範囲だけです。一命はとりとめたものの、意識までは戻りませんでした。それから、簡易的に作った装置でミユキの延命を行っていたのですが、作り出せる電力が限られているので、生命維持装置に安定した電力を受け流せない状態でした。いつ延命治療ができなくなるか、分からない状態です。だからせめてミユキのために、生き残った人たちで徒党を組んで首都再建を目指し、ミユキの意識が戻ったときに生きやすい世界を取り戻そうと組織を作ったのです」
霧島はヒカリの写真を見ながら話しているように見えたが、すぐに私の方へ視線を落として続きを語り出す。初めてあったときとは違い優しい口ぶりに感じた。
「でも本当は、首都再建なんてただの建前だったのです。本当はミユキの延命、ひいては意識の回復だけが目的でした。だんだんとミユキが衰弱してゆく日々の途中で、私はヒカリさんの能力のことを知ったのです。ヒカリさんの持つエネルギーさえあれば建前としての首都建設も、本当の目的のミユキの延命と治療も可能になることに気が付きました。だから私は、ヒカリさんのことを狙ったのです」
「だからって、なんでヒカリを殺さなきゃならないの! そんなの……そんなのただのあなたのエゴじゃない」
私は霧島の足にしがみついた。力任せに霧島の膝元を殴りつける。霧島に怒りをぶつけてもヒカリは帰ってこないなんてことを、頭では分かっているのにこの怒りや悲しみを消化することができない。
すると、泣き咽ぶ私に霧島はしゃがみこんでハンカチを差し出した。ハンカチを渡す霧島の義手が震えている。私が顔を見上げると、霧島も目に涙を浮かべていた。
「……いいえ、私はヒカリさんを殺してはいません。結局、それよりも先に妻のミユキが亡くなってしまいました」
霧島は限りなく冷淡な表情をしていたが、その瞳の内側には妻を愛していた証のような、そんな優しさが窺えた。霧島は右手の義手を左の手でさすりながら続ける。
「ミユキは体の大部分を損傷していました。顔の部分も、隕石が衝突したときの衝撃で皮膚が半分はがれてしまいました。だから私は彼女の美しい姿を取り戻すために、私の右手を移植して修復をしたんです。またいつか二人で言葉を交わせるようになったとき、ミユキには綺麗なままでいてほしかったので。ミユキは、私が今まで見てきた人間の中で一番美しかったのです。息を引き取ったあの日も、誰よりも綺麗でした。……でも、もういいんです。私はこれから、今ある命をできるだけ多く救っていくことを決めました」
霧島は私に向けてほんの少しだけ微笑んだ。真顔のように見えるのに、かつて私たちのことを襲った存在とは思えないほど優しい顔だった。
「……それじゃあヒカリは……、ヒカリはまだ生きてるの? 早くヒヒカリに会わせて!」
私の言葉に対して、霧島は表情をあまり変えなかったが、それでも少しだけ後ろめたさのようなものが感じられた。一瞬私から目をそらして霧島は話し出した。
「私はヒカリさんからの伝言を録音テープで預かっています。私からではなく、事の顛末はヒカリさん自身の言葉であなたにお伝えしたいとのことなので……」
ヒカリが今どこで何をしているのか、そして霧島がなぜヒカリの安否を隠すのかが分からなかった。それでも今確かなことは、霧島が持っているテープレコーダーの中に真相が入っているということだ。私は霧島の方を見ると、霧島は黙って静かに頷きレコーダーの再生ボタンを押した。
『……ツムギ、聞こえるかな。私だよ』
レコーダーから数日ぶりに、大好きなヒカリの声が聴こえてくる。その声を聴くだけで、一度止まったはずの涙が止まらない勢いで再びあふれ出した。
「……ヒカリ!」
届かないのは分かっているのに、私は思わずヒカリの名前を呼んでしまった。
『今私は新宿の霧島のところでこの音声を録ってる。カナエ君とノゾム君はもう治療をしてもらって安静にしてるから、安心してね』
ヒカリの息遣いが小さなレコーダーの奥から聴こえてくる。まるですぐそこにいるようで、会えない距離にいるような声。少し間を開けて音声は続いた。
『……何から話せばいいのか悩むんだけど、ツムギに直接言ったら多分怒られちゃうからこんな形で伝えるけど許してね。……私、レミニセンスに能力を預けることにしたんだ。霧島がそうさせたんじゃなくて、私の意志で』
私は、自分の心臓の拍動が止まったような感覚に陥った。ヒカリ自らレミニセンスに能力を預けたということは、もう既にあの元気なヒカリとは会えないということになる。そんなこと、信じられるわけがない。だって、ヒカリと別れるとき、そんなこと何も言ってなかった。
それなのに、どうして。
衝撃に打ちひしがれる私をよそに、テープレコーダーの音声は続く。
『だからきっと今頃、私の体は眠ったまま復興省が保管してくれている状態だと思う。……って言ってもツムギちゃんは許してくれないよねぇ~。あの時は黙って置いて行ってごめんね。やっぱり後悔もするし、もっと他にできることもあったんじゃないかって思うんだけど、こうするしかなかったんだ』
あれだけまた聴きたいと願った優しい声なのに、聴いているだけで胸が痛いほど寂しさを感じる。ヒカリの明るい声の裏に、やり場のない後悔の念を感じてしまって、なおさら辛かった。
ノイズの混じる音声はまた少し間を開けて、再び話を続けた。
『ツムギ自身が一番わかってると思うんだけど、ツムギの肺の病気はもう限界まで進行してる。一緒に生活しててすぐわかったし、苦しんでるツムギの顔を見てるとこっちもすごく辛かった。それなのに、私の力だけじゃツムギのこと助けてあげられないのが、どうしようもなく悔しかったの。それに、こっちに着いてから霧島の奥さんのことを聞いた。こんな世界だと、誰がいつ死んでもおかしくないじゃない。このままじゃ私が何もできないまま、先にツムギが死んじゃう。そんなの嫌だし、そしたら私また一人になっちゃうって思ってた。だから私、霧島のもとでレミニセンスに能力を預けて、ヒカリの治療のためのエネルギーになることにしたんだ。ヒカリには霧島のもとで肺の病気を治療してもらって、それからは復興省で安全に暮らして欲しいの。復興省なら医療を施せる人もいるし、私がレミニセンスを介してコミュニティのライフラインを繋げば、その後の生活にも困らないでしょ。それに、今はカナエ君とノゾム君がいるから、私がいなくなってもツムギは一人にはならないじゃない?』
ヒカリは、私の病状のことを理解してくれていた。私自身が見ないふりをしていたが、私の命もそう長くはない。ヒカリの前では考えたこともなかったが、避けられない事実だ。ヒカリには心配を掛けたくなかったので、その深刻さを隠していたつもりだったが、ヒカリにはなんでもお見通しであった。
でも、だからと言って自分の身を犠牲にしてまで救ってほしいなどとは思っていない。私はヒカリと離れたいなんて、一度も思ってなどいない。
「……勝手すぎるよ、ヒカリ」
泣き疲れて乱れた呼吸で、私は小さく呟いた。ヒカリは勝手すぎる。勝手で、ガサツで、無鉄砲で、楽観的で、それで……
それで、私のことを誰よりも愛してくれている。
悲しいはずなのに、ヒカリの無鉄砲な行動のことを思うと、あまりにもヒカリらしくて笑えてきてしまった。私は笑いながら泣きじゃくった。録音された音声も、私に微笑みかけているようなトーンだ。
『だからさ、ツムギ。私の能力を受け取って、この先の人生を楽しく過ごして欲しいの。思う存分、『ヒカリちゃんパワー』を受け取ってよね? ツムギはよく知ってるでしょ? ヒカリちゃんパワーがすごいことくらい』
おどけたような声で録音されたヒカリの声が響いた。聞こえる声から、自慢げな顔をしているヒカリの姿がありありと浮かんでくる。でも、よく聞けば鼻を啜るような音や、震えた息遣いも聞こえてきた。
「……なんだ、ヒカリだって泣いてんじゃんか」
ずるいよヒカリ。私のこと置いて行って私を助けたつもりになんかなっちゃって。本当にずるい。
『これから先、ツムギの未来が楽しくて明るいことを願ってるから。元気でね!』
震えた声でヒカリは叫ぶ。優しくて、明るくて、大好きな声がテープから鳴り響いた。
『世界で一番愛してるよ、ツムギ!』
音声はここで止まった。
よく晴れた冬空の下、そよぐ風の音とこすれ合うイチョウの葉の音と、私の泣き声だけが響いた。泣き疲れてしまった私は、黄色いイチョウの葉で埋め尽くされた秋葉原駅前で大の字に寝転んだ。空は、ヒカリの瞳のように澄んでいる。
私が呆然としていると、側で黙ったまま立っていた霧島がふと口を開く。
「確実に治せるかは分からないですが、託された海船ヒカリさんの生命を無駄にしないよう、あなたの病気は私が責任をもって治療します。落ち着いてからで構いません。復興省のある新宿まで向かいましょう」
霧島の声はとても優しく聞こえた。大切な人を失ったもの同士だからか、その声は励ましにも慈しみにも聞こえる。
私は霧島に答えるために一度立ち上がろうとした。しかし、私の体は思うように持ち上がらない。やはり私の病状は芳しくないようだ。
私は寝ころんだままその先の未来のことを考えた。この先も誰かと困難を乗り越え、誰かと慰め合い、誰かと愛を知り、誰かと幸せに暮らすことができるのだろうか。そしてその「誰か」がヒカリになることはないのだろうか。私のために私を裏切るなんて、ヒカリはやっぱずるいなあ。私だってヒカリのためにヒカリの意志を裏切ってみたいのに。私だって、ヒカリのために全力で身を呈してやりたいのに。
沈黙する私のことを霧島は不思議そうに見つめている。それからしばらくして、私はにやりと笑ってから答えを出した。
「分かった。一度新宿まで行くけど私のお願いを一つ聞いてほしい。私のこと置いて勝手に話進めちゃってたんだから、ちょっとヒカリに仕返ししたくなったの」
「仕返し……ですか、私にできることなら構いませんよ」
二つ返事を受けて、私はその「仕返し」を霧島に伝えた。私が思いつく、最善で最高の「仕返し」を。霧島は最初こそ私のお願いを却下したが、最終的に私の意志を尊重してくれた。
私は、かくしてヒカリに「仕返し」を決行することにしたのだ。
6
今日でミユキが死んでから三年が経つ。災害からはもう六年も経った。あれから復興省の発展は大きく進み、各地から生き残った人たちが集まってきた。今ではもうコミュニティの人数は百人近くにまで成長しており、首都の復建も着実に進んできている。それもこれも、「レミニセンス」の機能が可能にしてくれたのだ。だから今こうして私がいる東京都庁の一室にも、電気が灯っている。
小さな明かりのつくこの部屋で、私は棺で眠るミユキの頬に手を当てた。十分に腐敗処理を行っているので、変わらずミユキは美しいままだ。縫合痕ばかりの顔になっても、ミユキはいつまでも美しいミユキである。
「行ってくるよ、ミユキ」
私はミユキのおでこに軽くキスをして部屋を出た。
外ではコミュニティの人々が活発に暮らしている。ライフラインは拡充され、平和で豊かな暮らしがそこにはあるのだ。
丁度この時間都庁前の広場では、少年たちが駆け回っていた。ある少年は左足に義足をはめており、またある少年は頭部に縫合がなされている。二人とも、私がかつて治療を施した子たちだ。私は彼らへ声を掛ける。
「カナエさん、ノゾムさん、これから私は出かけるのですが、その間にレミニセンスの定期メンテナンスをお願いできますか? 日没までには帰る予定です」
「「霧島さん! 了解しました!」」
私の呼び声に、彼らは顔の向きを揃えて返事をする。相変わらず元気のよい子たちだ。
「ちなみにどこまで行かれるんですか?」
兄のカナエの方が、私に尋ねる。普段なら当てもなくぶらつく程度なのだが、今日に限っては、その答えが決まっていた。
「秋葉原です。彼女らへ挨拶しに行かないと」
私は総武線に沿って新宿から秋葉原まで歩いた。途中、お堀のところで土砂崩れが起きていたので、市ヶ谷駅からは普通の道を歩いて行った。外堀通りからはひたすら直進するだけで秋葉原にたどり着く。聖橋をくぐったところで、目的地が見えてきた。かつて世界最大の電脳とサブカルチャーの街だった、秋葉原だ。
エディオンの角を曲がり電気街通りを直進する途中に、目的のゲームセンターはある。入り口が倒木で塞がった、薄暗いゲームセンターだ。私は瓦礫をくぐって、奥へ進む。
大量のアーケードレトロゲームが置かれた一角には、建物の壁面に開いた穴から光がさしている。
そこでは、二人の少女がカプセルの中で抱き合って眠っている。
微塵も動くことのない彼女らは、まるで彫刻のようだった。既に熱を持たない彼女らだが、その表情はどこか暖かそうであった。幸せそうで、健やかな表情。
「ツムギさん。あなたがヒカリさんに仕返しをしたいからと言って、ヒカリさんを裏切って私は治療を行いませんでしたが、時々私は、その選択が正しかったのか分からなくなります。でも、こうしてあなたたちが安らかに眠っている様子を見ていると、きっと正しかったのだろうと思えるようになりました。本当は、ヒカリさんだってツムギさんと離れることが嫌なのは私にも分かっていましたから。ともあれ、お二人のお陰もあって今日も復興省は平和です。感謝いたします」
私はカプセルに手をかざし、呟いた。返事が返ってくることはないと分かっているが、二人の笑う声が聴こえてくるような気がした。
私が手をかざした部分に、ふと目が留まる。そこには、二人の写真があった。大きくピースサインを掲げるヒカリさんと、控えめに笑うツムギさん。二人がまだその写真の中で生きているような、とてもいい写真だ。
これから私には、復興省にいる人々の命を守る使命があるということを、改めて自覚した。この写真に写る彼女らのように、誰もが笑い合える世界を取り戻すというかたい意志を、改めて胸に刻めるような、そんな写真にも見えた。
「また来ます」
入り口に咲いたアングレカムの花を一輪カプセルの前に供えて、私は秋葉原のゲームセンターを後にした。隙間風に揺られる花の姿には、なぜか心が洗われるような、そんな雰囲気がこもっている。
白いアングレカムの花の姿はまるで彼女らのようだ。小さいながらも可憐で、力強く咲いている。花言葉は「祈り」で、私から手向ける花として適切だろう。
それと、そういえばアングレカムにはあともう一つ花言葉がある。その花言葉は、
「いつまでもあなたと一緒」
終