起きたら世界の七割くらい、透明だった。
正確に言えば、起きた後の僕にはたった三割くらいの変化に見えたのだ。
最初こそ、また視力が下がったのかもしれないと思ってばかりだった。平和を形状記憶した僕の脳みそはそれを変化だとすら認識してはくれなかった。
朝十時十五分に起きて、その二十分後。ちゃんと変化を、変化として認識してくれた。いや、こんな時ぐらい認識してくれないと困ってしまう。
「おはよう」
そう口にする愛する恋人の姿がい黄色いブラウスだけになってしまった時ぐらい。
道なき道を沿っていけば、右足が何かを蹴り上げた。音だけが遠くに転がっていって、やがて何もない空間に吸い込まれていく。
一時間ほど歩いてみた結果、今日の日の変化をなんとなくわかるようになってきた。ベンチに座って、頭の中に散らばっていた文字たちを自分の元に引き寄せる。今日という日を自分の外に出してしまわないように。
石が見えない。
今歩いた道も道なき道だった。石畳が奥底に水道管が見えたおかげで、なんとか道なりはわかったものの、それでも歩くのにとても不便であった。一人だけ、浦島太郎になってしまったようだった。
でもそんな世界に閉じ込められているのは僕だけみたいだ。子供達は何も知らずに、石ころをサッカーボールに見立てて遊んでいる。ころんころん、と遠くに転がっていく音だけがやけに響いた。
なら、自分の恋人はなぜ見えずにいたんだろう。
考えて、歩く。考えて歩く。
そうしていると、あっという間に影の向きが変わっていった。
帰ったら、恋人がいた。今日は早上がりだったのだ、と嬉しそうに話す彼女の口角が見えない。相変わらず姿形は見えない。
なんだか、惨めな気持ちになった。ベッドに入る頃にはすっかり何もかもが冷めていた。
ふと思い立って、隣で眠る──果たして眠っているのか──恋人の顔を見る。もっと強い何かをしてやろうか、案外幽霊のようにすり抜けてしまうのではないか。いたずら心に身を任せてしまおうかと思ったその時、自分をおそろしさに気がついた。暴力性を帯びていたからだ。
恋人のことすら、道に転がる石のように「そこにあったら蹴ってしまう」ような存在としか認識していないのではないか。自らが有利になる男尊女卑の片鱗だとかを再認識してしまう。マイノリティ、多様性という言葉が頭を掠めた。
僕は、この言葉に関する真たる議論ができない。それは、この自分の中に眠る旧時代的な価値観を否定されたくないからではないか。
劇的ではないけれど、ささやかでもない。日常に隠れた新発見をしてしまった。そのことに気がついたその日の夜は、うまく眠れなかった。
次の日の朝には、全てが元に戻っていた。
にこやかに笑う恋人。日常的に通る、アスファルトの道。
結局あの日、恋人が見えなかった理由はわからなかった。
何回体に触れても石のような固さはなく、ただ女の肉がそこにあるだけだった。
正確に言えば、起きた後の僕にはたった三割くらいの変化に見えたのだ。
最初こそ、また視力が下がったのかもしれないと思ってばかりだった。平和を形状記憶した僕の脳みそはそれを変化だとすら認識してはくれなかった。
朝十時十五分に起きて、その二十分後。ちゃんと変化を、変化として認識してくれた。いや、こんな時ぐらい認識してくれないと困ってしまう。
「おはよう」
そう口にする愛する恋人の姿がい黄色いブラウスだけになってしまった時ぐらい。
道なき道を沿っていけば、右足が何かを蹴り上げた。音だけが遠くに転がっていって、やがて何もない空間に吸い込まれていく。
一時間ほど歩いてみた結果、今日の日の変化をなんとなくわかるようになってきた。ベンチに座って、頭の中に散らばっていた文字たちを自分の元に引き寄せる。今日という日を自分の外に出してしまわないように。
石が見えない。
今歩いた道も道なき道だった。石畳が奥底に水道管が見えたおかげで、なんとか道なりはわかったものの、それでも歩くのにとても不便であった。一人だけ、浦島太郎になってしまったようだった。
でもそんな世界に閉じ込められているのは僕だけみたいだ。子供達は何も知らずに、石ころをサッカーボールに見立てて遊んでいる。ころんころん、と遠くに転がっていく音だけがやけに響いた。
なら、自分の恋人はなぜ見えずにいたんだろう。
考えて、歩く。考えて歩く。
そうしていると、あっという間に影の向きが変わっていった。
帰ったら、恋人がいた。今日は早上がりだったのだ、と嬉しそうに話す彼女の口角が見えない。相変わらず姿形は見えない。
なんだか、惨めな気持ちになった。ベッドに入る頃にはすっかり何もかもが冷めていた。
ふと思い立って、隣で眠る──果たして眠っているのか──恋人の顔を見る。もっと強い何かをしてやろうか、案外幽霊のようにすり抜けてしまうのではないか。いたずら心に身を任せてしまおうかと思ったその時、自分をおそろしさに気がついた。暴力性を帯びていたからだ。
恋人のことすら、道に転がる石のように「そこにあったら蹴ってしまう」ような存在としか認識していないのではないか。自らが有利になる男尊女卑の片鱗だとかを再認識してしまう。マイノリティ、多様性という言葉が頭を掠めた。
僕は、この言葉に関する真たる議論ができない。それは、この自分の中に眠る旧時代的な価値観を否定されたくないからではないか。
劇的ではないけれど、ささやかでもない。日常に隠れた新発見をしてしまった。そのことに気がついたその日の夜は、うまく眠れなかった。
次の日の朝には、全てが元に戻っていた。
にこやかに笑う恋人。日常的に通る、アスファルトの道。
結局あの日、恋人が見えなかった理由はわからなかった。
何回体に触れても石のような固さはなく、ただ女の肉がそこにあるだけだった。