君に好かれてしまったようだ。
昔ではなく、今の君に。
ばさばさっ。
毎晩、青年が部屋に入るタイミングで紙の束が棚から落ちる。最初は片付けるうちに懐かしい気持ちになれた。構想を練るだけ練って文章化しなかったプロットが束になっているからだ。だが、このポルターガイストに何度も遭遇しているうちに「たとえ駄作でも、完結しない名作よりはマシ」と言う、女性作家である幼馴染の、刃よりも鋭い言葉が心に深く突き刺さった。
彼女は僕の作品を未だに待ち続けてくれているのだろうか。
青年はそう思いながら、紙束を元に戻す。
だけど、今日はいつもと違った。紙束はまた落ちた。何度も、何度も繰り返し落ち、ついには本棚からたくさんの本が落ちた。
「もう、何だよ!」
頭に血が上っているのが自分でも分かるくらい、頭が熱くなっていた。その時、熱を冷ますような風が、青年の頬を掠めた。窓も開いていない密室の中で、紙たちがその風に連れられるように舞い始め、人の身体の輪郭を帯び始めた。
ついにポルターガイストの真髄が姿を現した。青年だけしかいない空間に、いるはずのない誰かが同居する現象に、青年は冷静さを言葉と共に失い、尻餅をついた。
紙が指の先まで組成された人型の怪異の手には、ペンが握られていた。そのペンは、作家である彼女が文芸賞で初めて獲得した賞金で購入し、手書きでプロットを書くのが好きな青年に贈ってくれた高級品だ。その筆先が彼の顔に向いている。
「や、やめろ!」
青年は目を瞑った。何かを刺す音はしたが、痛覚が同時に来ることはなかった。
ペンの筆先が、書きかけのプロットを画鋲代わりにするように壁に突き刺さっていた。
青年は我を忘れてペンを引き抜いた。幸い、ペンは無事だった。そのペンで床に落ちた紙に作りかけのプロットの続きを書き始めた。怖い思いをしなくて済むと信じて書き続けた。そうする方法しか思いつかなかった。
彼女は今も待ち続けている。
青年はそう確信した。そうとしか考えられなかった。
作品は完成した。存外、時間はかからなかった。
完成した作品が、文芸の大賞を獲得した。出版社として活動しないかと声もかけられた。
やればできるという自信と、待ち続けてくれていた彼女への罪悪感を少しだけ払拭できたという安堵が青年の心に生まれた。
執筆している今も、定期的にポルターガイストの事を思い出す。
あの場では自分より、彼女の方が怒っていたのかもしれないと青年は思った。彼女が生きている間に何も完成させなかったのに、その後も何も完成させようとしない自分に痺れを切らしていたのかもしれない。
カタッ。
彼女が「その通り!」と言うかのようにペンが音を立てた。
完結していない青年の作品は、まだ山のようにある。
だけど、あの時以前の青年とは違う。もう完成させた前例を作った。読んでくれる読者が、必ず傍にいる。
青年はペンを取る。積み上げられた未完成作品を、少しずつ片付けるために。