−−ええ、ええ、お客さんなんて久しぶりですから。どうぞ、ごゆっくりしていってください。まぁ、とは言っても何にもないですよね、お茶も出せずにすみません。
−−そうですね、誰かとこうして話すのはなかなか久しぶりですね、いかんせんこんなところなので。いやいや、こんな山奥の湖の底までご足労頂きありがとうございます。
女は礼儀正しくしっかりと腰を折って挨拶した。女の目は長いまつ毛の下に美しい形をしていた。少し緑に濁っている水の中でも、それは淡い光を宿して幽玄に揺れた。
−−あ、そうですね。ご足労というよりは、なんでしょうか、我々足ないですものね。あはは。
山奥のダム湖の水底は土と水草と藻類に覆われていて、どこか異世界のようだった。女の表情は、哀しげながらも凛としていて、私にはそれがどこか愛らしいように見えた。遠慮がちな小さな唇が、その印象をより際立たせている。
−−貴方はなんでこちらに……? あ、いえ、言いたくなかったらそれでいいのですが……。
女は少し照れたように微笑んだ。頬がほんのりと桃色に染まる、幽霊らしからぬ柔らかな表情には、心のどこかが引っ張られるような気さえする。
−−へえ、いろんな幽霊に話を聞いてまわっているんですか? もしかして、現世では敏腕ジャーナリストだったり!?
女はそう言って静かに笑った。整った顔立ちにふわっと上品な笑みが浮かぶ様子は、まるで高原に咲く一輪の小さな石楠花のように可憐に輝いて見える。
−−ああ、そうですか、写真家をなさってたんですね。この湖にはいっぱい写真写りのいい場所があると思うので、ぜひ。あ、でももう幽霊になってからはカメラ持ってないですものね、これはこれは、失敬です。いかんせん人とちゃんと喋るのが現世以来なもので、慣れてないんですよ、すみませんねえ。こんな山奥なので、誰か幽霊が来るってこともないですし。
女は少し興奮したかのように早口で喋った。
−−あちらの方、下が平面になっているのが判るでしょう? あの辺は、もともと畑や田んぼだったんです。そのわきのあの真っ直ぐなのは、村に数少ないアスファルトの通りだったものです。ええ、あ、そうです、あちらに連なっているのは住宅だったものの名残です。不思議でしょう? 水の中では建物は朽ちるのは遅いんですよ。水草や藻に覆われて、その重みでのみ、ゆっくりと倒れていくんです。
女はそう、湖のさらに底の方を指さしながら言った。指は白く艶やかに透き通っていた。
女はゆっくりとした足取りで底の方へ底の方へと進んでいく。水中を歩くたび、ふわりふわりと美しい黒髪が静かに揺れた。女の耳たぶの小さな美しい真珠の耳飾りも、そのたびにふわりふわりと揺れる。
ほぼ全壊している住宅の群れは、瑞々しいほどの緑に覆われ、巨大な影を成していた。それは古代に滅んだ文明の遺跡を思わせるほど、厳然とした威厳を纏って沈黙していた。
−−私は、幼い頃ずっとここに住んでいたんです。この村に生まれて、この村で育ちました。そして今また、ここにいます。私の盛衰は、この村と一緒です。
女は、そのかつて住居の群れであった塊を、目を煌めかせて眺めていた。その瞳の光は、どこか郷愁を帯びた懐かしい輝きだった。
−−私の話、話してもいいですかね? あ、いや、ただの身の上話です。そんなに面白くはないので……。ただ、貴方に、そんな人生を生きた人もいたのか、と、そう思ってもらえるだけで、それで幸いです。……そうですね、これで成仏できたのなら、何よりです。
女はかつて住宅であったものを、ただ静視したままそう言った。そして、喋っては時折恥ずかしそうになるのだった。
女はそうして、ゆっくりと在りし日のことを語り出しだした。見上げれば、緑の大きな塊の上をウグイが数匹群れになって泳いでいる。
*
私は昔、いや、昔と言っても、ずうっと昔、魔法が使えると思い込んでいるような女の子でした。だからいつも、お友達とは離れて過ごしていました。
私の住んでいた家は村の中心地からは外れてたところにありました。ちっぽけで築年数も古い木造の家だったけれど、お祖父さんの代から住んでた家だったので家族みんなで大切に住んでいました。
この村の人の多くがそうであったように、私の父も林業従事者でした。毎日苗木の管理や下草刈り、たまに蔓切りや間伐などをして、発注がかかるとたくさん木を斬りました。私はそんなこんなで、だからとくに何か悩むことや迷うこと、そして望むこともなく日々を過ごしていました。
私は魔法が使える、しようと思えば空だって飛べるんだぞ。そう言って毎日、ただ空を眺めるなどして日々を過ごしていました。
空は、ただずっとそこにありました。私が生まれてくる前からずっと、そしてきっと、私が死んだ後にもずっと。
私は、学校でも人とはそこまで深く交じらず、駄菓子屋に行くにも公園に行くにも一人でした。そうして毎日毎日、ふらふらと行くあてもなく、流れる雲とどこまでも青い空とを眺めて日々を過ごしていました。
この村には、学校が一つだけありました。正確に言えば二つなのですが、小学校と中学校は、名前が違うだけで同じ建物だったので、実質一つのようなものだったのです。
私は教室でも、窓の外ばかり眺めていました。勉強は大してできなかった上に、全然面白くありませんでしたから、ただ空ばかり眺めて日々を過ごしていました。まあ、もう、今となっては空も見えないんですけどね。
私は、いつもどこでも、かっこよくありたい、と思っていました。気取っていたんですね。
そして私は、ひとつ年上の彼もまた、私と同じようなそんな人だったんじゃないかと思っていました。
彼もまた、授業中、外ばかり眺めているような人でした。多分、賢い彼にとって、小さな村の学校の授業は退屈だったのでしょう。彼はその端正な顎のラインを片手でくいと上げながら、少し気だるそうに、いつも外を眺めていたのでした。
彼は村内一の名家の出で、いわゆる地主でした。それがなんだと言うかもしれませんが、小さな集落にとってはそんなことがいちいち大切で、彼も彼の家族も、村の中では優遇されていました。もちろん学校でも、そんな様でした。彼の周りには自然と人が集まり、学校の先生たちさえも、彼を丁重に扱っていました。まあ、彼が人当たりよく気さくな好人物で、成績が優秀だったのは間違いありませんが。
私はいつも、窓の外の空を眺めるのと同じようにして、彼の横顔を眺めていました。目は深く濃い色で、重たい前髪と長いまつ毛が複雑な造形の影をその瞳と頬に落としていました。彼の顔は、ドキドキするようなかっこよさではありませんでしたが、それでもなんとなく美しいといった印象を与えるようなものでした。私は、中学三学年合わせて十人ほどの教室の中で、ただ同じように窓を眺めていた彼に対し、常から何かしら小さなシンパシイのようなものを感じていた様に思います。そんなこんなで、私は無為自然として日々を送っておりました。
彼と私が深い仲になることになったのは、季節が秋に入りかけたころのとある日、当てもなく散歩していたときのことです。村の西の果てのこざっぱりした丘の上で、たまたまばったりと会いました。
私はその頃も、ただ一人でふらふらと行くあてもなく、流れる雲とどこまでも青い空とを眺めて日々を過ごしていましたから、道端でばったりと知り合いに会うことも少なくありませんでした。しかし、そういうときの話はたいてい決まっていて、「あの薬局のところの〇〇ちゃん、△△くんと別れたらしいよ」といったものばかりでした。当時の私はそういった世間話を大層嫌っていたので、私は適当に流して、また一人で歩き出すのが常でした。
しかし、彼は違いました。
「明日は、雨が降るね。」
私は、目を丸くしました。彼はなんの脈絡や挨拶もなく、私と同じように空を見上げてそう言いました。
「え?」
「たぶん明日は雨だよ。」
「……そうなの?」
「うん。昨日までは小さかったうろこ雲が、ひつじ雲になってきてる。」
「うん。」
「そうすると、明日には雨が降る。」
私は半信半疑の気持ちのまま、雲を眺めました。北西の高い山と山の間に、夕陽に照らされて少しだけオレンジがかった大きめのひつじ雲が、もくもくとたくさん並んでいました。
彼は首に掛けていた大きめのカメラを目にあてて、ファインダーから空を覗いてシャッターを切りました。彼は納得したように軽くうなずくと、黙ってカメラを下ろしました。
私は彼と並んで、ただ北西の空を見上げていました。風は少し冷たく、二人の間を心細げに過ぎていきました。隣に立っている彼の背が思ったよりも高いことに気づいて、私は思いがけずドキドキとしました。心臓の優しく清らかなときめきは、しばし私を心地よい浮遊感で包みました。
翌日、学校が終わると、私は一目散に丘の上を目指していきました。空は一面の黒い雲でしたが、雨は降っていませんでした。私は彼に、そのことにひとこと文句を言ってやろうと思っていたのです。秋風はガアガアと荒び、トレンチコートに吹き付けました。私は一歩一歩と丘へと歩いていきました。
丘の上に彼はいませんでした。私は少しがっかりしました。なぜ私は、彼がここに来ているものとばっかり思い込んでいたのでしょうか。丘の上からの景色も、やはり黒い雲がのさばっているばかりで何にも面白くありません。振り返ると、村の全体が見渡せました。午後にも関わらず村は暗く覆われていて、大きな田畑に囲まれた家々からぽつぽつと灯りが溢れている光景は、まるで高原に飛び交う蛍のようにも見えました。向こう側の山は暗い雲に覆われて、遠く霞んでいます。
私は空を見上げました。そして静かに魔法を口の中で唱えます。呪文など適当なものです。私はそれっぽい言葉を口の中でごもごもと呟きました。私は、自分の魔法のおかげで雨が降らないのだと思っていました。それゆえ、雨が降らないことを彼に誇りたかったのです。
しかし、しばらくそうしていると、案の定、ぽつりぽつりと雨が降り始めてきてしまいました。私は、自分の力が及ばなかったことを悔しく思いました。そして、踵を返して引き返そうとした、その時でした。遠くから彼が歩いてくるではありませんか。
彼は黒い高級そうな傘を手に背筋をピシッと伸ばしたまま、早い足取りで私に近づいてきて、濡れはじめた私の頭上に傘を掛けました。
「言わんこっちゃない。」
彼はそう言ってニコッと優しく微笑みました。私は自分の敗北を確信しました。そして私はそれ以降、彼のことを「博士」と呼ぶようになりました。
博士とは何度も何度も村のはずれの丘の上で二人で会っては話しました。丘の上には、秋風に吹かれてほとんど枝だけになった寂しげな一本の楡の木がありました。私たちはいつも丘の上に並んで座り、話したり空を眺めたりして、午後の時間を無為自然と過ごしていました。
私たちは丘の上以外の場所では、ほとんど話をしませんでした。賢明だったのです。村の中で親しくしているとあらぬ噂が立てられることなど、幼かった私たちでもわかっていることでした。なにせ、相手は地主の嫡男です。何を言われるかわかったものじゃありませんから。
博士もまた、普段はそれまでの生活と変わらないようにしていました。彼は何より優秀でしたから、そういったことも巧かったのでしょう。
「俺ふだんは実家を継ぐ、なんて言ってるけどさ。」
ある時、博士はそんなふうに暗く話し始めたことがありました。私たちは丘の上に座り込んで、遠く夕闇に沈んでゆく村の景色を眺めていました。
「本当はこの村を出ていきたいんだよね。」
博士は、腰のわきに生えていた雑草をちぎって前に軽く放り投げながら、ぶっきらぼうにそう言いました。
「どうして?」
私は慎重に顔を覗き込みました。しかしその表情は宵闇に暗く沈んでいてよく読み取れません。
「この街って、暮らしにくいじゃんか。ほら、君もそう思ってるんでしょ?」
私は、「うん。」と言って話の先を進めました。博士の言いたいことはなんとなく分かりましたが、本当に彼の言う「暮らしにくい」がどういうことかは、理解できずにいました。私はたしかに彼と同じようにいつも一人でいましたが、私はただ、望んで一人でいたに過ぎないのです。
「俺さ、カメラマンになりたいんだよ。」
博士はそう言って、首に掛けているカメラを持ち上げてみせました。
「カメラマンになって、世界中のいろんな景色や人々のことを撮りたい。いろんな国のいろんな色の空を撮りたい。カメラひとつで、自由に世界を泳ぎまわりたい。」
博士は、ひとつひとつ噛みしめるようにして言いました。暗くて表情は見えなくても、その眼に宿る確かな灯火は見てとれました。
「君は何になりたいの?」
彼は当然のごとくとして私にそう聞きました。私は返答に窮しました。なりたいものなど、考えてもいなかったからです。私にも、憧れる職業の一つや二つはありました。けれど、それはただ憧れるだけで、なりたい、とは別なようなものでした。こちらを見つめる純粋な彼の眼差しに、私は少し怖気づきました。
「……私はね、魔法が使えるようになりたい。」
私はぼそっとそう言って、顔を上げました。彼は依然として私のことをじっと見つめています。
「いいね、それ。なんかかっこいい。」
博士は少しニヤッとして、私に微笑みかけました。やわらかで、けどまるで少年のような微笑みでした。その笑顔が素敵で、私は思わず彼に抱きついてしまいました。しかし、彼も私を抱き寄せ、丁寧な仕草で頭を撫でてくれました。今まで感じたことのなかった充足感が、私の体をたっぷりと包み込みました。見上げれば、山々の稜線や家々の輪郭が、夜闇に静かに溶けていました。
村に衝撃的なニュースが伝わったのは、そうして一年が過ぎ、もう一度目の秋が来ようとしていたころのことでした。回覧板に赤の太字で書かれた大層な紙が挟まれていたのです。
そうです、今ご覧の通り。この村がダムの底に沈むことに決定したのです。村はたちまち大混乱になりました。畑や田んぼはどうなるのか、今まで管理してきた森林はどうなるのか、家は、暮らしは。大人たちは大仰に騒いでは、道端や学校や郵便局、どこもかしこもがその話題で持ちきりになりました。私は、村がより窮屈になったような気がして、今までにも増して丘の上へと通いました。
博士もまた、丘の上に以前よりも来るようになりました。彼は少し疲れた顔をしていました。彼は丘の上に来ては、遠くの山々や空や村をたくさんシャッターに収めました。
村の多くの家は、国から提示された莫大な補償金にほとんど納得するような形でした。私の家もあばら屋に住む零細林家でしたから、例に漏れず補償に納得して早々と近くの地方都市への引越しの検討を始めました。
しかし唯一、博士の家だけは反対活動を展開していました。この村の地主でしたから当然のことでしょうか、それはそれはもう大層なもので、村の役員などを巻き込んでの大騒動でした。そうすると今度は、村の人々はひそひそと博士の家の悪口を言い始めました。それは、以前からの村の役員の登用制度に対する反感だったり、中には、あの家は極左の活動家だ、といった根も葉もない噂などもありました。
そうしてそのまんま、秋が過ぎ、冬が過ぎてゆきました。私は散歩中、道端で博士の家や博士に対しての悪口雑言を持ちかけられても、うんうん、とただうなずくことしかできずにいました。そしていつも以上にふらふらと一人で歩き回りました。季節は、暦上ではもうすぐ春になろうとしていましたが、山間のこの村ではまだ厳しい寒さが続いていました。
「私はやっぱり、魔法使いではなかったんだ。」
あるとき、私は丘の上で博士にそう言いました。私たちは、たくさん着込んでもなお寒いこの日々をやり過ごすがごとく、ひっついて座っていました。
「そうだなあ。」
博士は村を眺めながらぼんやりと呟きました。言葉と一緒に吐いた息は寒さで白煙になって、ふわっと消えてゆきました。
「でも、君がそう思っていてくれるのが嬉しいよ。」
博士は少し身震いをしてから、私の顔を覗き込んで静かに微笑みました。彼の美しい切れ長の目の下には、うっすらと黒っぽい影ができていました。
「博士はどう思うの? ……ダムについて。」
「俺は、本当は、」
そう言って博士は辺りを見回しました。丘に生えた一本の楡の木には、まだうっすらと雪が残っていました。
「本当は、こんな村、ダムの底に沈んじゃえ、って思ってる。」
「うん。」
博士の声には、いつも以上に力がこもっていました。
「だけど、この丘だけは、残っててほしい。うん、残っててほしい。」
私はそっと彼を抱きしめました。着込んだ服越しに、微かに彼の体温が感ぜられました。
「俺の、唯一の居場所だから。」
博士は寂しそうな声色で、でも満足そうな表情で、そう呟きました。私はなんだか泣きそうになってさらに彼をぎゅっと引き寄せました。顔と顔がぐっと近くなって、息遣いまでが感ぜられるほどでした。
彼はそっと私の頬に手を当てました。肌の産毛の一本一本、毛穴のひとつひとつまでもが見えるほど顔が近くなって、そして、彼は私の唇にそっと口づけしました。
顔を離したあとも、私たちは寄り添って座っていました。
田畑にはまだ、積もった雪が残っているのが見えました。みんな寒さから逃れて家の中にこもっているのか、見渡す限り人はひとりも見えませんでした。この丘の上に、この村に、この世界に、まるで私たちだけの二人きりになったかのようでした。
「俺、さ。」
突然、博士は力のこもった声で前を向いて言いました。
「この春に中学を卒業したら、この村を出て行こうと思うんだ。」
「……え?」
私は思わず聞き返しました。
「実は東京に歳の離れたいとこが一人で住んでてさ。それで、東京の高校に通おうと思ってる。」
私は黙って彼の言葉に耳を傾けていました。辺りには虫や鳥の声さえなく、楡の木がサワサワと風に触れる音だけが響いていました。
「もう東京の高校にもこっそり願書を出したんだ。来週、受験にもこっそり行ってくる。」
博士は、こっそり、という言葉をとても大事そうに繰り返しました。私は、ただ黙ってかける言葉を探していました。
博士の目には強い覚悟の火が灯っていました。それはそれは、この寒波を吹き飛ばすかのような、強い魂の火でした。
「やっぱ、かっこいいな、博士は。」
私の微笑みながら言った声に、博士は意外といった顔をしました。
「受験、頑張ってこいよ。私が魔法かけてあげるね。」
そう言って私は、ポカンとしながらも嬉しそうにする博士の頭にそれっぽい魔法をかけました。
「ありがとう、きっと効果バツグンだよ。」
彼は優しく笑いました。その穏やかな微笑みは、少しお茶目で、けど大人びていて、私には少しだけ遠いものように感ぜられました。
見上げると北西の方の山々の間に、少し大きめのひつじ雲がぽこぽことたくさん浮いているのが見えました。それは翳りゆく陽光のなか温かな色に染まって、幻想的なグラデーションを空に描いていました。
「ここで初めて会った日も、こんな雲が浮いていたね。」
私の言葉に博士はうなずきました。
「そういえば、俺はあれから『博士』なんて大層なあだ名をつけられていたんだなあ。」
彼は静かに笑いました。笑うときに、くしゃっとなる感じが私はすごく好きでした。
「博士、明日は、雨が降るかな?」
「そうだな、雨が降るかな、いや、この寒さだと雪かもしれない。」
私たちは残り少ない時間を少しでも共有するように、寄り添って笑い合いました。
そうして、私と博士の最後の春がおとづれました。午前六時四〇分の、村に来る唯一の朝の列車を、私は博士と二人、ホームで待っていました。
ホームに時折吹きつける強い東風はまだ寒かったものの、冬と比べるとやはりあたたかでした。空には雲ひとつなく、博士のこの村の最後の日としては絶好の天気だと、私は強く思いました。
「この村が沈んだあとも、あの丘は残るかな?」
博士は少し寂しそうな表情で丘を見上げました。
村の真ん中にある駅のホームから見ると、丘はそこまで大きくは見えませんでした。ただなだらかな芝の早緑の色が、濃緑の山景を背後に美しく映えていました。
「うーん、でもさすがに、あそこも水の中か。」
博士は少し諦めた様子で、自分でそう答えました。長いまつ毛がゆっくりとまばたきをしました。
「けど、覚えてる。」
私は強く言いました。
「うん、覚えてる。」
彼も強く言いました。
「二人で過ごした日々は、きっとなくならないから。」
「そうだね。」
彼の頬にはひとつの翳りもなく、もう目の下の黒い隈も消えていました。
丘は、ただそこにありました。私たちの生まれるずっと前から。そして、私たちがたとえ死んだとしても、水の中になったとしても、きっと、この先もずっと。
「ねえ。」
不意に博士が私の手を握りました。
「これ、よかったらあげる。」
渡された手を広げると、そこにはあたたかに白く光る真珠の耳飾りがありました。
「どうしたの、これ。」
「こないだ受験で東京に行ったときに、買ってきたんだ。君に似合うと思って。」
彼は少し照れくさそうにして私の目を見つめました。
「ありがとうね。」
「こちらこそ、ありがとう。」
私が耳飾りを耳たぶにつけると、博士は「綺麗」と言って微笑みました。そうして、私たちはひしと抱き合いました。
「また、いつかね。」
「うん。またいつか。」
「絶対だよ。」
「うん、絶対。」
彼の背中に回した腕に力を込めました。私の頬をあたたかな雫が一粒一粒と落ちていきました。
「あの丘の上でまた待ってるから。絶対、待ってるから。」
私は震えた声でそう言いました。
「うん。でももう、なくなるんでしょ?」
笑いながら言う彼の声も、くぐもって震えていました。肩越しに伝わる彼の声は、いつもよりも響いて聞こえました。
「なくなるけど、それでも待っているわ。」
肩越しに、彼が大きくうなずくのがわかりました。私は噛み締めるように必死になって彼にしがみついていました。
そのとき、いっそう強い風が吹いて私たちの体を揺らしました。
一両しかないさびれた列車がホームに停車すると、ガタガタと音を立ててドアが開きました。
「ねえ、君の写真を撮らせてほしい。」
彼はそう言うと、涙を拭って手早くカメラを構えました。
私は少し恥ずかしくなりながらも、笑顔でカメラの前に背筋を伸ばしました。ファインダーを覗く彼の真剣な眼差しに、私は自分の胸が、熱く、熱くなるのを感じました。
そうして、発車時刻とともに博士を乗せた列車はこの村を去っていきました。
私は列車を見送るとすぐに、丘の上に駆けて行きました。
丘の上の楡の木は、小さな美しい緋色の花をたくさんつけていました。私はただ、真珠の耳飾りを触りながら、舞い散る楡の花びらと春の風の中で、いつまでもいつまでも立ち尽くしていました。
*
−−その後、彼とは文通を続けていたけれど、私の家や彼が引っ越しをしたのもあって、手紙はやがて途切れてしまいました。
話し終えると、女は水面の方を見るようにして顔を持ち上げながら少し懐かしそうにそう言った。しかし水は緑に濁っていて、水面の輝きまではここからは見えなかった。
−−私だってその後はいろんな恋をしたし、いろんな経験をしました。けれど、不思議ね。死んで、そしてこうしてまたここに化けて出てしまうなんて。
−−ええ、ええ、知っています。きっとまだ未練が残っていたんですよね、たぶん、そうなんでしょう。
女は幸せそうにふふっと笑って私の方を向き直った。耳たぶに小さくついた真珠の耳飾りがゆらりと揺れる。
私は慎重に、そして静かに、自分がその博士、であることを告げた。
−−ええ、やっぱり、博士だったんですね。こんなとこに来るなんて、それはそうですよね。まあ、すっかり年老いて、博士……。
彼女はそうして、笑顔のままぼろぼろと涙をこぼした。
−−大好きだったよ。ほんとうに、大好きだったわ。それだけ、ただそれだけどうしても伝えたかったの。どうしても、そのことだけ。
私は彼女に近づくと、強く強く、抱きついた。何年、何十年ぶりかもわからないかたい抱擁だった。水の中で、しかも幽霊の体など、何のあたたかさもないはずだけれど、腕のなかには確かに彼女の体温があった。
そして、どれほどか長い時間が過ぎて腕を離して目を開けたころ、もう腕のなかに彼女の姿はなかった。
振り返れば、先ほど降りてきた、遠いむかし丘であったろう場所が、緑がかった水の中でゆらゆらと揺れていた。丘の上には、大きな枯木が一本、私を見下ろすようにして立っている。
私は胸のポケットから、一枚の古い写真を取り出した。そこには、今はもうない駅名標の前で、緊張した面持ちで静かに微笑む一人の少女が写っている。
もう湖の底には、誰の姿もない。ただ、真珠の耳飾りと一枚の古い写真が、かつて村だった場所に抱かれ、静かに眠っている。
−−そうですね、誰かとこうして話すのはなかなか久しぶりですね、いかんせんこんなところなので。いやいや、こんな山奥の湖の底までご足労頂きありがとうございます。
女は礼儀正しくしっかりと腰を折って挨拶した。女の目は長いまつ毛の下に美しい形をしていた。少し緑に濁っている水の中でも、それは淡い光を宿して幽玄に揺れた。
−−あ、そうですね。ご足労というよりは、なんでしょうか、我々足ないですものね。あはは。
山奥のダム湖の水底は土と水草と藻類に覆われていて、どこか異世界のようだった。女の表情は、哀しげながらも凛としていて、私にはそれがどこか愛らしいように見えた。遠慮がちな小さな唇が、その印象をより際立たせている。
−−貴方はなんでこちらに……? あ、いえ、言いたくなかったらそれでいいのですが……。
女は少し照れたように微笑んだ。頬がほんのりと桃色に染まる、幽霊らしからぬ柔らかな表情には、心のどこかが引っ張られるような気さえする。
−−へえ、いろんな幽霊に話を聞いてまわっているんですか? もしかして、現世では敏腕ジャーナリストだったり!?
女はそう言って静かに笑った。整った顔立ちにふわっと上品な笑みが浮かぶ様子は、まるで高原に咲く一輪の小さな石楠花のように可憐に輝いて見える。
−−ああ、そうですか、写真家をなさってたんですね。この湖にはいっぱい写真写りのいい場所があると思うので、ぜひ。あ、でももう幽霊になってからはカメラ持ってないですものね、これはこれは、失敬です。いかんせん人とちゃんと喋るのが現世以来なもので、慣れてないんですよ、すみませんねえ。こんな山奥なので、誰か幽霊が来るってこともないですし。
女は少し興奮したかのように早口で喋った。
−−あちらの方、下が平面になっているのが判るでしょう? あの辺は、もともと畑や田んぼだったんです。そのわきのあの真っ直ぐなのは、村に数少ないアスファルトの通りだったものです。ええ、あ、そうです、あちらに連なっているのは住宅だったものの名残です。不思議でしょう? 水の中では建物は朽ちるのは遅いんですよ。水草や藻に覆われて、その重みでのみ、ゆっくりと倒れていくんです。
女はそう、湖のさらに底の方を指さしながら言った。指は白く艶やかに透き通っていた。
女はゆっくりとした足取りで底の方へ底の方へと進んでいく。水中を歩くたび、ふわりふわりと美しい黒髪が静かに揺れた。女の耳たぶの小さな美しい真珠の耳飾りも、そのたびにふわりふわりと揺れる。
ほぼ全壊している住宅の群れは、瑞々しいほどの緑に覆われ、巨大な影を成していた。それは古代に滅んだ文明の遺跡を思わせるほど、厳然とした威厳を纏って沈黙していた。
−−私は、幼い頃ずっとここに住んでいたんです。この村に生まれて、この村で育ちました。そして今また、ここにいます。私の盛衰は、この村と一緒です。
女は、そのかつて住居の群れであった塊を、目を煌めかせて眺めていた。その瞳の光は、どこか郷愁を帯びた懐かしい輝きだった。
−−私の話、話してもいいですかね? あ、いや、ただの身の上話です。そんなに面白くはないので……。ただ、貴方に、そんな人生を生きた人もいたのか、と、そう思ってもらえるだけで、それで幸いです。……そうですね、これで成仏できたのなら、何よりです。
女はかつて住宅であったものを、ただ静視したままそう言った。そして、喋っては時折恥ずかしそうになるのだった。
女はそうして、ゆっくりと在りし日のことを語り出しだした。見上げれば、緑の大きな塊の上をウグイが数匹群れになって泳いでいる。
*
私は昔、いや、昔と言っても、ずうっと昔、魔法が使えると思い込んでいるような女の子でした。だからいつも、お友達とは離れて過ごしていました。
私の住んでいた家は村の中心地からは外れてたところにありました。ちっぽけで築年数も古い木造の家だったけれど、お祖父さんの代から住んでた家だったので家族みんなで大切に住んでいました。
この村の人の多くがそうであったように、私の父も林業従事者でした。毎日苗木の管理や下草刈り、たまに蔓切りや間伐などをして、発注がかかるとたくさん木を斬りました。私はそんなこんなで、だからとくに何か悩むことや迷うこと、そして望むこともなく日々を過ごしていました。
私は魔法が使える、しようと思えば空だって飛べるんだぞ。そう言って毎日、ただ空を眺めるなどして日々を過ごしていました。
空は、ただずっとそこにありました。私が生まれてくる前からずっと、そしてきっと、私が死んだ後にもずっと。
私は、学校でも人とはそこまで深く交じらず、駄菓子屋に行くにも公園に行くにも一人でした。そうして毎日毎日、ふらふらと行くあてもなく、流れる雲とどこまでも青い空とを眺めて日々を過ごしていました。
この村には、学校が一つだけありました。正確に言えば二つなのですが、小学校と中学校は、名前が違うだけで同じ建物だったので、実質一つのようなものだったのです。
私は教室でも、窓の外ばかり眺めていました。勉強は大してできなかった上に、全然面白くありませんでしたから、ただ空ばかり眺めて日々を過ごしていました。まあ、もう、今となっては空も見えないんですけどね。
私は、いつもどこでも、かっこよくありたい、と思っていました。気取っていたんですね。
そして私は、ひとつ年上の彼もまた、私と同じようなそんな人だったんじゃないかと思っていました。
彼もまた、授業中、外ばかり眺めているような人でした。多分、賢い彼にとって、小さな村の学校の授業は退屈だったのでしょう。彼はその端正な顎のラインを片手でくいと上げながら、少し気だるそうに、いつも外を眺めていたのでした。
彼は村内一の名家の出で、いわゆる地主でした。それがなんだと言うかもしれませんが、小さな集落にとってはそんなことがいちいち大切で、彼も彼の家族も、村の中では優遇されていました。もちろん学校でも、そんな様でした。彼の周りには自然と人が集まり、学校の先生たちさえも、彼を丁重に扱っていました。まあ、彼が人当たりよく気さくな好人物で、成績が優秀だったのは間違いありませんが。
私はいつも、窓の外の空を眺めるのと同じようにして、彼の横顔を眺めていました。目は深く濃い色で、重たい前髪と長いまつ毛が複雑な造形の影をその瞳と頬に落としていました。彼の顔は、ドキドキするようなかっこよさではありませんでしたが、それでもなんとなく美しいといった印象を与えるようなものでした。私は、中学三学年合わせて十人ほどの教室の中で、ただ同じように窓を眺めていた彼に対し、常から何かしら小さなシンパシイのようなものを感じていた様に思います。そんなこんなで、私は無為自然として日々を送っておりました。
彼と私が深い仲になることになったのは、季節が秋に入りかけたころのとある日、当てもなく散歩していたときのことです。村の西の果てのこざっぱりした丘の上で、たまたまばったりと会いました。
私はその頃も、ただ一人でふらふらと行くあてもなく、流れる雲とどこまでも青い空とを眺めて日々を過ごしていましたから、道端でばったりと知り合いに会うことも少なくありませんでした。しかし、そういうときの話はたいてい決まっていて、「あの薬局のところの〇〇ちゃん、△△くんと別れたらしいよ」といったものばかりでした。当時の私はそういった世間話を大層嫌っていたので、私は適当に流して、また一人で歩き出すのが常でした。
しかし、彼は違いました。
「明日は、雨が降るね。」
私は、目を丸くしました。彼はなんの脈絡や挨拶もなく、私と同じように空を見上げてそう言いました。
「え?」
「たぶん明日は雨だよ。」
「……そうなの?」
「うん。昨日までは小さかったうろこ雲が、ひつじ雲になってきてる。」
「うん。」
「そうすると、明日には雨が降る。」
私は半信半疑の気持ちのまま、雲を眺めました。北西の高い山と山の間に、夕陽に照らされて少しだけオレンジがかった大きめのひつじ雲が、もくもくとたくさん並んでいました。
彼は首に掛けていた大きめのカメラを目にあてて、ファインダーから空を覗いてシャッターを切りました。彼は納得したように軽くうなずくと、黙ってカメラを下ろしました。
私は彼と並んで、ただ北西の空を見上げていました。風は少し冷たく、二人の間を心細げに過ぎていきました。隣に立っている彼の背が思ったよりも高いことに気づいて、私は思いがけずドキドキとしました。心臓の優しく清らかなときめきは、しばし私を心地よい浮遊感で包みました。
翌日、学校が終わると、私は一目散に丘の上を目指していきました。空は一面の黒い雲でしたが、雨は降っていませんでした。私は彼に、そのことにひとこと文句を言ってやろうと思っていたのです。秋風はガアガアと荒び、トレンチコートに吹き付けました。私は一歩一歩と丘へと歩いていきました。
丘の上に彼はいませんでした。私は少しがっかりしました。なぜ私は、彼がここに来ているものとばっかり思い込んでいたのでしょうか。丘の上からの景色も、やはり黒い雲がのさばっているばかりで何にも面白くありません。振り返ると、村の全体が見渡せました。午後にも関わらず村は暗く覆われていて、大きな田畑に囲まれた家々からぽつぽつと灯りが溢れている光景は、まるで高原に飛び交う蛍のようにも見えました。向こう側の山は暗い雲に覆われて、遠く霞んでいます。
私は空を見上げました。そして静かに魔法を口の中で唱えます。呪文など適当なものです。私はそれっぽい言葉を口の中でごもごもと呟きました。私は、自分の魔法のおかげで雨が降らないのだと思っていました。それゆえ、雨が降らないことを彼に誇りたかったのです。
しかし、しばらくそうしていると、案の定、ぽつりぽつりと雨が降り始めてきてしまいました。私は、自分の力が及ばなかったことを悔しく思いました。そして、踵を返して引き返そうとした、その時でした。遠くから彼が歩いてくるではありませんか。
彼は黒い高級そうな傘を手に背筋をピシッと伸ばしたまま、早い足取りで私に近づいてきて、濡れはじめた私の頭上に傘を掛けました。
「言わんこっちゃない。」
彼はそう言ってニコッと優しく微笑みました。私は自分の敗北を確信しました。そして私はそれ以降、彼のことを「博士」と呼ぶようになりました。
博士とは何度も何度も村のはずれの丘の上で二人で会っては話しました。丘の上には、秋風に吹かれてほとんど枝だけになった寂しげな一本の楡の木がありました。私たちはいつも丘の上に並んで座り、話したり空を眺めたりして、午後の時間を無為自然と過ごしていました。
私たちは丘の上以外の場所では、ほとんど話をしませんでした。賢明だったのです。村の中で親しくしているとあらぬ噂が立てられることなど、幼かった私たちでもわかっていることでした。なにせ、相手は地主の嫡男です。何を言われるかわかったものじゃありませんから。
博士もまた、普段はそれまでの生活と変わらないようにしていました。彼は何より優秀でしたから、そういったことも巧かったのでしょう。
「俺ふだんは実家を継ぐ、なんて言ってるけどさ。」
ある時、博士はそんなふうに暗く話し始めたことがありました。私たちは丘の上に座り込んで、遠く夕闇に沈んでゆく村の景色を眺めていました。
「本当はこの村を出ていきたいんだよね。」
博士は、腰のわきに生えていた雑草をちぎって前に軽く放り投げながら、ぶっきらぼうにそう言いました。
「どうして?」
私は慎重に顔を覗き込みました。しかしその表情は宵闇に暗く沈んでいてよく読み取れません。
「この街って、暮らしにくいじゃんか。ほら、君もそう思ってるんでしょ?」
私は、「うん。」と言って話の先を進めました。博士の言いたいことはなんとなく分かりましたが、本当に彼の言う「暮らしにくい」がどういうことかは、理解できずにいました。私はたしかに彼と同じようにいつも一人でいましたが、私はただ、望んで一人でいたに過ぎないのです。
「俺さ、カメラマンになりたいんだよ。」
博士はそう言って、首に掛けているカメラを持ち上げてみせました。
「カメラマンになって、世界中のいろんな景色や人々のことを撮りたい。いろんな国のいろんな色の空を撮りたい。カメラひとつで、自由に世界を泳ぎまわりたい。」
博士は、ひとつひとつ噛みしめるようにして言いました。暗くて表情は見えなくても、その眼に宿る確かな灯火は見てとれました。
「君は何になりたいの?」
彼は当然のごとくとして私にそう聞きました。私は返答に窮しました。なりたいものなど、考えてもいなかったからです。私にも、憧れる職業の一つや二つはありました。けれど、それはただ憧れるだけで、なりたい、とは別なようなものでした。こちらを見つめる純粋な彼の眼差しに、私は少し怖気づきました。
「……私はね、魔法が使えるようになりたい。」
私はぼそっとそう言って、顔を上げました。彼は依然として私のことをじっと見つめています。
「いいね、それ。なんかかっこいい。」
博士は少しニヤッとして、私に微笑みかけました。やわらかで、けどまるで少年のような微笑みでした。その笑顔が素敵で、私は思わず彼に抱きついてしまいました。しかし、彼も私を抱き寄せ、丁寧な仕草で頭を撫でてくれました。今まで感じたことのなかった充足感が、私の体をたっぷりと包み込みました。見上げれば、山々の稜線や家々の輪郭が、夜闇に静かに溶けていました。
村に衝撃的なニュースが伝わったのは、そうして一年が過ぎ、もう一度目の秋が来ようとしていたころのことでした。回覧板に赤の太字で書かれた大層な紙が挟まれていたのです。
そうです、今ご覧の通り。この村がダムの底に沈むことに決定したのです。村はたちまち大混乱になりました。畑や田んぼはどうなるのか、今まで管理してきた森林はどうなるのか、家は、暮らしは。大人たちは大仰に騒いでは、道端や学校や郵便局、どこもかしこもがその話題で持ちきりになりました。私は、村がより窮屈になったような気がして、今までにも増して丘の上へと通いました。
博士もまた、丘の上に以前よりも来るようになりました。彼は少し疲れた顔をしていました。彼は丘の上に来ては、遠くの山々や空や村をたくさんシャッターに収めました。
村の多くの家は、国から提示された莫大な補償金にほとんど納得するような形でした。私の家もあばら屋に住む零細林家でしたから、例に漏れず補償に納得して早々と近くの地方都市への引越しの検討を始めました。
しかし唯一、博士の家だけは反対活動を展開していました。この村の地主でしたから当然のことでしょうか、それはそれはもう大層なもので、村の役員などを巻き込んでの大騒動でした。そうすると今度は、村の人々はひそひそと博士の家の悪口を言い始めました。それは、以前からの村の役員の登用制度に対する反感だったり、中には、あの家は極左の活動家だ、といった根も葉もない噂などもありました。
そうしてそのまんま、秋が過ぎ、冬が過ぎてゆきました。私は散歩中、道端で博士の家や博士に対しての悪口雑言を持ちかけられても、うんうん、とただうなずくことしかできずにいました。そしていつも以上にふらふらと一人で歩き回りました。季節は、暦上ではもうすぐ春になろうとしていましたが、山間のこの村ではまだ厳しい寒さが続いていました。
「私はやっぱり、魔法使いではなかったんだ。」
あるとき、私は丘の上で博士にそう言いました。私たちは、たくさん着込んでもなお寒いこの日々をやり過ごすがごとく、ひっついて座っていました。
「そうだなあ。」
博士は村を眺めながらぼんやりと呟きました。言葉と一緒に吐いた息は寒さで白煙になって、ふわっと消えてゆきました。
「でも、君がそう思っていてくれるのが嬉しいよ。」
博士は少し身震いをしてから、私の顔を覗き込んで静かに微笑みました。彼の美しい切れ長の目の下には、うっすらと黒っぽい影ができていました。
「博士はどう思うの? ……ダムについて。」
「俺は、本当は、」
そう言って博士は辺りを見回しました。丘に生えた一本の楡の木には、まだうっすらと雪が残っていました。
「本当は、こんな村、ダムの底に沈んじゃえ、って思ってる。」
「うん。」
博士の声には、いつも以上に力がこもっていました。
「だけど、この丘だけは、残っててほしい。うん、残っててほしい。」
私はそっと彼を抱きしめました。着込んだ服越しに、微かに彼の体温が感ぜられました。
「俺の、唯一の居場所だから。」
博士は寂しそうな声色で、でも満足そうな表情で、そう呟きました。私はなんだか泣きそうになってさらに彼をぎゅっと引き寄せました。顔と顔がぐっと近くなって、息遣いまでが感ぜられるほどでした。
彼はそっと私の頬に手を当てました。肌の産毛の一本一本、毛穴のひとつひとつまでもが見えるほど顔が近くなって、そして、彼は私の唇にそっと口づけしました。
顔を離したあとも、私たちは寄り添って座っていました。
田畑にはまだ、積もった雪が残っているのが見えました。みんな寒さから逃れて家の中にこもっているのか、見渡す限り人はひとりも見えませんでした。この丘の上に、この村に、この世界に、まるで私たちだけの二人きりになったかのようでした。
「俺、さ。」
突然、博士は力のこもった声で前を向いて言いました。
「この春に中学を卒業したら、この村を出て行こうと思うんだ。」
「……え?」
私は思わず聞き返しました。
「実は東京に歳の離れたいとこが一人で住んでてさ。それで、東京の高校に通おうと思ってる。」
私は黙って彼の言葉に耳を傾けていました。辺りには虫や鳥の声さえなく、楡の木がサワサワと風に触れる音だけが響いていました。
「もう東京の高校にもこっそり願書を出したんだ。来週、受験にもこっそり行ってくる。」
博士は、こっそり、という言葉をとても大事そうに繰り返しました。私は、ただ黙ってかける言葉を探していました。
博士の目には強い覚悟の火が灯っていました。それはそれは、この寒波を吹き飛ばすかのような、強い魂の火でした。
「やっぱ、かっこいいな、博士は。」
私の微笑みながら言った声に、博士は意外といった顔をしました。
「受験、頑張ってこいよ。私が魔法かけてあげるね。」
そう言って私は、ポカンとしながらも嬉しそうにする博士の頭にそれっぽい魔法をかけました。
「ありがとう、きっと効果バツグンだよ。」
彼は優しく笑いました。その穏やかな微笑みは、少しお茶目で、けど大人びていて、私には少しだけ遠いものように感ぜられました。
見上げると北西の方の山々の間に、少し大きめのひつじ雲がぽこぽことたくさん浮いているのが見えました。それは翳りゆく陽光のなか温かな色に染まって、幻想的なグラデーションを空に描いていました。
「ここで初めて会った日も、こんな雲が浮いていたね。」
私の言葉に博士はうなずきました。
「そういえば、俺はあれから『博士』なんて大層なあだ名をつけられていたんだなあ。」
彼は静かに笑いました。笑うときに、くしゃっとなる感じが私はすごく好きでした。
「博士、明日は、雨が降るかな?」
「そうだな、雨が降るかな、いや、この寒さだと雪かもしれない。」
私たちは残り少ない時間を少しでも共有するように、寄り添って笑い合いました。
そうして、私と博士の最後の春がおとづれました。午前六時四〇分の、村に来る唯一の朝の列車を、私は博士と二人、ホームで待っていました。
ホームに時折吹きつける強い東風はまだ寒かったものの、冬と比べるとやはりあたたかでした。空には雲ひとつなく、博士のこの村の最後の日としては絶好の天気だと、私は強く思いました。
「この村が沈んだあとも、あの丘は残るかな?」
博士は少し寂しそうな表情で丘を見上げました。
村の真ん中にある駅のホームから見ると、丘はそこまで大きくは見えませんでした。ただなだらかな芝の早緑の色が、濃緑の山景を背後に美しく映えていました。
「うーん、でもさすがに、あそこも水の中か。」
博士は少し諦めた様子で、自分でそう答えました。長いまつ毛がゆっくりとまばたきをしました。
「けど、覚えてる。」
私は強く言いました。
「うん、覚えてる。」
彼も強く言いました。
「二人で過ごした日々は、きっとなくならないから。」
「そうだね。」
彼の頬にはひとつの翳りもなく、もう目の下の黒い隈も消えていました。
丘は、ただそこにありました。私たちの生まれるずっと前から。そして、私たちがたとえ死んだとしても、水の中になったとしても、きっと、この先もずっと。
「ねえ。」
不意に博士が私の手を握りました。
「これ、よかったらあげる。」
渡された手を広げると、そこにはあたたかに白く光る真珠の耳飾りがありました。
「どうしたの、これ。」
「こないだ受験で東京に行ったときに、買ってきたんだ。君に似合うと思って。」
彼は少し照れくさそうにして私の目を見つめました。
「ありがとうね。」
「こちらこそ、ありがとう。」
私が耳飾りを耳たぶにつけると、博士は「綺麗」と言って微笑みました。そうして、私たちはひしと抱き合いました。
「また、いつかね。」
「うん。またいつか。」
「絶対だよ。」
「うん、絶対。」
彼の背中に回した腕に力を込めました。私の頬をあたたかな雫が一粒一粒と落ちていきました。
「あの丘の上でまた待ってるから。絶対、待ってるから。」
私は震えた声でそう言いました。
「うん。でももう、なくなるんでしょ?」
笑いながら言う彼の声も、くぐもって震えていました。肩越しに伝わる彼の声は、いつもよりも響いて聞こえました。
「なくなるけど、それでも待っているわ。」
肩越しに、彼が大きくうなずくのがわかりました。私は噛み締めるように必死になって彼にしがみついていました。
そのとき、いっそう強い風が吹いて私たちの体を揺らしました。
一両しかないさびれた列車がホームに停車すると、ガタガタと音を立ててドアが開きました。
「ねえ、君の写真を撮らせてほしい。」
彼はそう言うと、涙を拭って手早くカメラを構えました。
私は少し恥ずかしくなりながらも、笑顔でカメラの前に背筋を伸ばしました。ファインダーを覗く彼の真剣な眼差しに、私は自分の胸が、熱く、熱くなるのを感じました。
そうして、発車時刻とともに博士を乗せた列車はこの村を去っていきました。
私は列車を見送るとすぐに、丘の上に駆けて行きました。
丘の上の楡の木は、小さな美しい緋色の花をたくさんつけていました。私はただ、真珠の耳飾りを触りながら、舞い散る楡の花びらと春の風の中で、いつまでもいつまでも立ち尽くしていました。
*
−−その後、彼とは文通を続けていたけれど、私の家や彼が引っ越しをしたのもあって、手紙はやがて途切れてしまいました。
話し終えると、女は水面の方を見るようにして顔を持ち上げながら少し懐かしそうにそう言った。しかし水は緑に濁っていて、水面の輝きまではここからは見えなかった。
−−私だってその後はいろんな恋をしたし、いろんな経験をしました。けれど、不思議ね。死んで、そしてこうしてまたここに化けて出てしまうなんて。
−−ええ、ええ、知っています。きっとまだ未練が残っていたんですよね、たぶん、そうなんでしょう。
女は幸せそうにふふっと笑って私の方を向き直った。耳たぶに小さくついた真珠の耳飾りがゆらりと揺れる。
私は慎重に、そして静かに、自分がその博士、であることを告げた。
−−ええ、やっぱり、博士だったんですね。こんなとこに来るなんて、それはそうですよね。まあ、すっかり年老いて、博士……。
彼女はそうして、笑顔のままぼろぼろと涙をこぼした。
−−大好きだったよ。ほんとうに、大好きだったわ。それだけ、ただそれだけどうしても伝えたかったの。どうしても、そのことだけ。
私は彼女に近づくと、強く強く、抱きついた。何年、何十年ぶりかもわからないかたい抱擁だった。水の中で、しかも幽霊の体など、何のあたたかさもないはずだけれど、腕のなかには確かに彼女の体温があった。
そして、どれほどか長い時間が過ぎて腕を離して目を開けたころ、もう腕のなかに彼女の姿はなかった。
振り返れば、先ほど降りてきた、遠いむかし丘であったろう場所が、緑がかった水の中でゆらゆらと揺れていた。丘の上には、大きな枯木が一本、私を見下ろすようにして立っている。
私は胸のポケットから、一枚の古い写真を取り出した。そこには、今はもうない駅名標の前で、緊張した面持ちで静かに微笑む一人の少女が写っている。
もう湖の底には、誰の姿もない。ただ、真珠の耳飾りと一枚の古い写真が、かつて村だった場所に抱かれ、静かに眠っている。
導入も凝っていて素敵ですが、もう少しシンプルにしたほうが入り込みやすい気もします