池袋駅構内の長い通路、俺の少し前を歩いているその男は、携帯で何か話をしている様で、折り曲げた腕がスーツの下に通してあるワイシャツを露出させている。しっかりと漂白された袖口にはきらりと光る会社のロゴを象ったカフスボタンが着いていた。
うちの会社は、ワイシャツの袖に社内で規定されている銀のカフスを着用する決まりがある。
間違いない、同じ会社の人だ。
俺は小走りになり、静かにその人の後ろにつける。
こちらの存在には微塵も気づいていない様子で、その人は腕時計を何度もチラチラと確認していた。携帯を持っている手の人差し指はずっとこめかみをトントンと一定のリズムで叩いている。
彼の落ち着きのない様子からして、同期なのではなかろうか、と思った。
職務経験が大学時代のアルバイトくらいしかない自分にとって、初出勤の朝に同期を駅で見かけるという出来事は、まさしく僥倖と呼ぶには十分すぎる偶然だった。
となれば、これは話しかけるチャンスだ。早いうちに同期と仲良くなっておけば、社内で孤立するリスクを軽減できる。職場の人間関係について扱った啓発本にもそう書いてあった。
じっくりと彼の背中を見つめて機会を窺う。こういうのはタイミングが重要で、電話が終わって数秒後、相手の緊張がほどけた隙を見計っていくのが無難だろう。外さないように予め口の中で「あのっ」と第一声を用意しておく。
見失わないようにその人の後ろにつけたまま、通路を渡り切ってJRの改札を通る。
構内を行き交う人の群れには、俺と同じ新卒らしきスーツの人たちが散見される他、鞄とスーツを纏った人生の先輩たちが同じ方向へ列を成して向かっていて、不謹慎だが、葬式みたいだった。
そこではたと、改めて目の前の彼を見て考えた。
これでもし、同期ではなかったら?
背格好から判断する限り年は近そうだし、スーツも新品のように綺麗だったので、てっきり同期だと思っていたが、なるほど、出来るサラリーマンは道具を大切にすると聞く。
危うく勢いで話しかけてしまうところだった。
いや、もし上司なのだとしたらそれもまたチャンスではないか。上司との関係は会社で生きていくためには避けて通れないし、あわよくば出世の足掛かりになるかもしれない。思わず口の端が上がる。
でも、ここで何か悪印象を持たれてしまったら? 客観的に見て、社外で話しかけてくる後輩はうざったいだろうか。しかし意欲的でないと思われるのは評価としてマイナスであるし、ここは多少のリスクを覚悟して、いやしかし、いま迂闊な行動を取っても危険か、いやいやしかし……。
ぐるぐると思案しているうちに、彼は階段を上り切り、電車が来るホームへ向かおうとしていた。それを目で追う。あの人について行けば、ひとまず迷うことはないだろう。
通話が終わったようで、彼はちょうど携帯を上着のポケットにしまっているところだった。話しかけるチャンスだと思ったが、ポケットから手を抜いているときに、何かが落ちるのが見えた。
早足で階段を駆け上がってそれを拾いあげる。社員証に付いた顔写真が見えて、はっとした。新入社員向けのオリエンテーションで、入社三年目にして営業成績トップと紹介されていた人だ。
これは願ってもないことだ。今すぐに媚びを売りに、いやいや、これを届けなくては。
落とし物に気付いていない彼はホームの少し先を歩いていた。だらりと下げられた手の人差し指は自身の太腿の付け根をトントンと叩いている。聞こえるように、用意していた「あのっ」を心持ち大きめに繰り出そうとすると、彼は歩調を落とすことなく右に曲がり、そのままホームの先へ落ちていった。
「…………え」
次の瞬間に電車がすごいスピードで通過して、大きな音が近くで鳴った。遅れて怒号と悲鳴が一斉にその場を埋め尽くしていく。
何が起きたか分からなくて周囲を見回すと、ホームに溜まった大多数のスーツの人々は、相変わらず乗車の列を崩していなくて、本当に葬式みたいだと思った。
幼い頃、親戚の葬儀に参列した時のことを思い出して、俺は社会人らしく、空気を読むことにした。
あ……会社に電話しないと。このままじゃ遅刻だ、会社で孤立してしまう。
携帯の発信ボタンを押し、出来るだけ平静を装って応答を待つ。その左手人差し指は、静かに自分のこめかみを叩き始めていた。
うちの会社は、ワイシャツの袖に社内で規定されている銀のカフスを着用する決まりがある。
間違いない、同じ会社の人だ。
俺は小走りになり、静かにその人の後ろにつける。
こちらの存在には微塵も気づいていない様子で、その人は腕時計を何度もチラチラと確認していた。携帯を持っている手の人差し指はずっとこめかみをトントンと一定のリズムで叩いている。
彼の落ち着きのない様子からして、同期なのではなかろうか、と思った。
職務経験が大学時代のアルバイトくらいしかない自分にとって、初出勤の朝に同期を駅で見かけるという出来事は、まさしく僥倖と呼ぶには十分すぎる偶然だった。
となれば、これは話しかけるチャンスだ。早いうちに同期と仲良くなっておけば、社内で孤立するリスクを軽減できる。職場の人間関係について扱った啓発本にもそう書いてあった。
じっくりと彼の背中を見つめて機会を窺う。こういうのはタイミングが重要で、電話が終わって数秒後、相手の緊張がほどけた隙を見計っていくのが無難だろう。外さないように予め口の中で「あのっ」と第一声を用意しておく。
見失わないようにその人の後ろにつけたまま、通路を渡り切ってJRの改札を通る。
構内を行き交う人の群れには、俺と同じ新卒らしきスーツの人たちが散見される他、鞄とスーツを纏った人生の先輩たちが同じ方向へ列を成して向かっていて、不謹慎だが、葬式みたいだった。
そこではたと、改めて目の前の彼を見て考えた。
これでもし、同期ではなかったら?
背格好から判断する限り年は近そうだし、スーツも新品のように綺麗だったので、てっきり同期だと思っていたが、なるほど、出来るサラリーマンは道具を大切にすると聞く。
危うく勢いで話しかけてしまうところだった。
いや、もし上司なのだとしたらそれもまたチャンスではないか。上司との関係は会社で生きていくためには避けて通れないし、あわよくば出世の足掛かりになるかもしれない。思わず口の端が上がる。
でも、ここで何か悪印象を持たれてしまったら? 客観的に見て、社外で話しかけてくる後輩はうざったいだろうか。しかし意欲的でないと思われるのは評価としてマイナスであるし、ここは多少のリスクを覚悟して、いやしかし、いま迂闊な行動を取っても危険か、いやいやしかし……。
ぐるぐると思案しているうちに、彼は階段を上り切り、電車が来るホームへ向かおうとしていた。それを目で追う。あの人について行けば、ひとまず迷うことはないだろう。
通話が終わったようで、彼はちょうど携帯を上着のポケットにしまっているところだった。話しかけるチャンスだと思ったが、ポケットから手を抜いているときに、何かが落ちるのが見えた。
早足で階段を駆け上がってそれを拾いあげる。社員証に付いた顔写真が見えて、はっとした。新入社員向けのオリエンテーションで、入社三年目にして営業成績トップと紹介されていた人だ。
これは願ってもないことだ。今すぐに媚びを売りに、いやいや、これを届けなくては。
落とし物に気付いていない彼はホームの少し先を歩いていた。だらりと下げられた手の人差し指は自身の太腿の付け根をトントンと叩いている。聞こえるように、用意していた「あのっ」を心持ち大きめに繰り出そうとすると、彼は歩調を落とすことなく右に曲がり、そのままホームの先へ落ちていった。
「…………え」
次の瞬間に電車がすごいスピードで通過して、大きな音が近くで鳴った。遅れて怒号と悲鳴が一斉にその場を埋め尽くしていく。
何が起きたか分からなくて周囲を見回すと、ホームに溜まった大多数のスーツの人々は、相変わらず乗車の列を崩していなくて、本当に葬式みたいだと思った。
幼い頃、親戚の葬儀に参列した時のことを思い出して、俺は社会人らしく、空気を読むことにした。
あ……会社に電話しないと。このままじゃ遅刻だ、会社で孤立してしまう。
携帯の発信ボタンを押し、出来るだけ平静を装って応答を待つ。その左手人差し指は、静かに自分のこめかみを叩き始めていた。