四月になって二週間がすぎた頃、春が死んで私は崩れた。
人気のない旧校舎の三階の隅の美術室。私はそこが好きだった。少し古風な教室の大きな窓が好きだった。窓から見えるグラウンドと、それを取り囲む桜の木々が好きだった。傷だらけの椅子と、絵の具に塗れた机が好きだった。立て付けの悪い椅子に座って、でこぼこな机に肘をついて、本を読むのが好きだった。美術の先生とする話が好きだった。先生の出すミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーが好きだった。でも、何よりも絵を描いている先生を見るのが好きだった。色が変わり、筆が変わる度に無秩序な紙やキャンバスが輪郭を持った『絵』に変わる。はじめの色をつけるあの緊張も、イメージと現実に惑うときも、先生の隣に立って先生の見る世界を一緒に見ていられるのが好きだった。
埃っぽい階段を登って私は美術室へと向かっていた。時間はお昼より少し前。聞こえるのは私の足音とグラウンドからの掛け声と教室から抜け出してきた断片的な単語たち。それらも、時折木々が揺れる音にかき消されていた。一瞬、動悸が揺れた。いたたまれない気持ちになって廊下に展示されている作品たちと目を合わさないようにして私は足早に教室に向かった。ささくれた取手のドアを引いて教室に入るとスッと心が軽くなる。
「おはよう、ハヅキさん」
いつものように窓辺に座った先生が柔和な微笑みを返してくれる。それだけで——それだけが、私は欲しかった。
俯いたままの私に対して先生は何も言わなかった。ただ少し綺麗な椅子を持って来てくれて、ただコーヒーを淹れてくれた。そして自分の元いた場所に戻ってゆっくりと筆を手に取った。
「それ、何描いてるんですか?」
秒針の音を数十回聞いたとき、私はようやく、そう言うことができた。
「窓の外——四月の景色」
キャンバスから目を逸らさずに先生は答えた。
「——四月は嫌いです」
「あら? どうして」
「春がいってしまったのが悲しくて。梅も桜も散ってしまって、歌うみたいだった風も嵐が連れ去って、甘く柔らかかった日も熱と湿気に毒されて、新しい何かに変わることを強制されて行ってしまったものを悲しむ暇がないから——嫌いです」
パレットの絵の具を混ぜながら先生は少し遠くを見ていたけれど「そうね——」と前置きして話し始めた。
「あなたの年頃の子はね、みんな四月に似てるのよ」
先生は筆先でキャンバスに色を広げるながらまだ仄かに湯気の立ち上るコーヒーを一口飲んで「怒らないでね」と付け加えた。
「春が散ったら夏が来る—それと同じで今は変わり目の時期だから。なくなったものに思いを馳せながら新しいものに期待するし期待もされる。でもそのスピードにはみんながみんなついて行ける訳じゃないし、無理してついていくこともない。立ち止まっても、後退しても、いつか前を向ければそれでいい。本を読んだり、絵を描いたり、ぼーっと空を眺めたり—あなたは、あなたでそして自由なんだから」
空に緑を混ぜながら、木々に赤を混ぜながらそれでも確かに崩れない窓の向こうが描かれている。ペインティングナイフを置いた先生が見たこともない真面目な顔で「そうでしょう?」と呟いた。私は突然難しくなった勉強や、「もう子供じゃないんだから」と言う母のなんとも言えない表情を思い出した。私は窓の外の空を見て、それからカップの中のコーヒーに映る自分の影をみたいつもと違って砂糖も、ミルクも入れていない。陶器から伝わる熱といい香りに包まれて程よく冷めたコーヒーをを私は一気に飲み干した。苦くて顔をしかめたけれど、そんな私を見て先生はいつも通りに微笑んだ。
「午後の授業は、頑張ってみます」
そういった私を先生は優しく撫でてくれた。旧校舎を出て見上げると三階の窓から先生が身を乗り出して私に手を振ってくれていた。私は深々と頭を下げて本校舎へと歩きだす。少し暑すぎる太陽と藍く、蒼く、そしてどこまでも青い空が広がっていた。
人気のない旧校舎の三階の隅の美術室。私はそこが好きだった。少し古風な教室の大きな窓が好きだった。窓から見えるグラウンドと、それを取り囲む桜の木々が好きだった。傷だらけの椅子と、絵の具に塗れた机が好きだった。立て付けの悪い椅子に座って、でこぼこな机に肘をついて、本を読むのが好きだった。美術の先生とする話が好きだった。先生の出すミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーが好きだった。でも、何よりも絵を描いている先生を見るのが好きだった。色が変わり、筆が変わる度に無秩序な紙やキャンバスが輪郭を持った『絵』に変わる。はじめの色をつけるあの緊張も、イメージと現実に惑うときも、先生の隣に立って先生の見る世界を一緒に見ていられるのが好きだった。
埃っぽい階段を登って私は美術室へと向かっていた。時間はお昼より少し前。聞こえるのは私の足音とグラウンドからの掛け声と教室から抜け出してきた断片的な単語たち。それらも、時折木々が揺れる音にかき消されていた。一瞬、動悸が揺れた。いたたまれない気持ちになって廊下に展示されている作品たちと目を合わさないようにして私は足早に教室に向かった。ささくれた取手のドアを引いて教室に入るとスッと心が軽くなる。
「おはよう、ハヅキさん」
いつものように窓辺に座った先生が柔和な微笑みを返してくれる。それだけで——それだけが、私は欲しかった。
俯いたままの私に対して先生は何も言わなかった。ただ少し綺麗な椅子を持って来てくれて、ただコーヒーを淹れてくれた。そして自分の元いた場所に戻ってゆっくりと筆を手に取った。
「それ、何描いてるんですか?」
秒針の音を数十回聞いたとき、私はようやく、そう言うことができた。
「窓の外——四月の景色」
キャンバスから目を逸らさずに先生は答えた。
「——四月は嫌いです」
「あら? どうして」
「春がいってしまったのが悲しくて。梅も桜も散ってしまって、歌うみたいだった風も嵐が連れ去って、甘く柔らかかった日も熱と湿気に毒されて、新しい何かに変わることを強制されて行ってしまったものを悲しむ暇がないから——嫌いです」
パレットの絵の具を混ぜながら先生は少し遠くを見ていたけれど「そうね——」と前置きして話し始めた。
「あなたの年頃の子はね、みんな四月に似てるのよ」
先生は筆先でキャンバスに色を広げるながらまだ仄かに湯気の立ち上るコーヒーを一口飲んで「怒らないでね」と付け加えた。
「春が散ったら夏が来る—それと同じで今は変わり目の時期だから。なくなったものに思いを馳せながら新しいものに期待するし期待もされる。でもそのスピードにはみんながみんなついて行ける訳じゃないし、無理してついていくこともない。立ち止まっても、後退しても、いつか前を向ければそれでいい。本を読んだり、絵を描いたり、ぼーっと空を眺めたり—あなたは、あなたでそして自由なんだから」
空に緑を混ぜながら、木々に赤を混ぜながらそれでも確かに崩れない窓の向こうが描かれている。ペインティングナイフを置いた先生が見たこともない真面目な顔で「そうでしょう?」と呟いた。私は突然難しくなった勉強や、「もう子供じゃないんだから」と言う母のなんとも言えない表情を思い出した。私は窓の外の空を見て、それからカップの中のコーヒーに映る自分の影をみたいつもと違って砂糖も、ミルクも入れていない。陶器から伝わる熱といい香りに包まれて程よく冷めたコーヒーをを私は一気に飲み干した。苦くて顔をしかめたけれど、そんな私を見て先生はいつも通りに微笑んだ。
「午後の授業は、頑張ってみます」
そういった私を先生は優しく撫でてくれた。旧校舎を出て見上げると三階の窓から先生が身を乗り出して私に手を振ってくれていた。私は深々と頭を下げて本校舎へと歩きだす。少し暑すぎる太陽と藍く、蒼く、そしてどこまでも青い空が広がっていた。