中学の同級生である佐々木つばさからあの連絡が来たのは、ちょうど僕が第一志望として目指していた企業からお祈りのメールを貰った時だった。
僕は既にその企業の書類と課題の選考を突破しており、二度ある面接の内、一つ目を突破出来るか否かの結果がその日送られてきた。おそらくコピーアンドペーストをしたと思われるその丁寧な文章は、まるで最初からお前は機械を相手にしていただけだと言われている様な気分になり、たまらず僕はSNSへと逃げた。そうして逃げ込んだSNSの一番上に、彼女はいた。
佐々木つばさと僕は、傍から見れば奇妙に感じるであろう友人関係を築いていた。それは異性同士でありながら、こうして六年間もやり取りをしているという状況以上に、単純に一友人関係として奇妙なものであった。
彼女とは中学の放送委員で一緒だった。クラスは一組と七組とで最も遠く、僕は七組に友人がいなかった為、放送委員の集まり以外で彼女と会う事は殆ど無かった。せいぜい集会の時に、何回かすれ違った程度だと思う。
そんな僕達が重なったきっかけは音楽だった。元々僕が放送委員に入った理由は、昼の昼食時に自分の好きな音楽を合法的に流す事が出来るからだった。そうして昼食時に当時好きだった音楽を流して四ヶ月程経った後、集会の時に彼女の方から僕に話しかけてきた。
僕達は驚くほどに価値観が違ったが、不思議と音楽の趣味だけは合った。特定のグループだけではなく、偶然知った曲や、新しく出た曲、僕が好きと感じた曲は彼女も好きで、彼女が好きと感じた曲は、やはり僕も好きになった。
後に集会の時だけでは飽き足らず、僕達はSNSで、自分の好きな音楽が見つかった時のみ連絡を取り合うことになり、そしてそれは大学四年生になった今も続いていた。
音楽の趣味が合う友人は貴重だ。二十二年間、大小様々な人間関係を築いてきたが、ここまで音楽の趣味が合う人間は佐々木ただ一人だけだった。音楽というジャンルはどうも好きを共有しづらく、その足りない部分を補える存在は、お互いにとって未だ変え難いものだと思う。
「中学の頃好きだった曲のタイトルが思い出せなくて、鈴木君知らない?」
佐々木が送ってきたメールはあまりにも抽象的だった。僕が「どんな感じの曲?」とメールを返しても「優しい曲」や「マニアックな曲」など、あまり役に立ちそうにない返事が返ってくるだけだった。佐々木は自分の好きな曲を発掘する天才だったが、その分かつて好きだった曲を忘れるスピードが早かった。ましては中学生の頃好きだった曲となれば、彼女に残っている情報は殆ど無いに等しいのだろう。
「力になれそうにない」
そこまで打った文字を消し、代わりに僕は彼女を喫茶店へと誘った。直接会えば、文字では伝わらない細かな部分から推測が出来るかもしれない。建前上そうは言ったが、その時の僕は彼女の忘れた曲のタイトルの事など全く何とも思ってはいなかった。恥ずかしさを感じないちょうど良い話し相手、それがその時の僕には必要だった。
彼女が交通事故で死んだと聞いたのは、それから二ヶ月程経った頃だった。
あの後予定を決める為、何度かメールをしても返事が無かったので変だとは思ってはいたが、噂好きな友人から教えてもらわなければ、きっと僕は一生知る事は無かっただろう。
驚きはあったが、これといって悲しくは無かった。連絡の頻度が高かった訳でも、顔を合わせていた訳でも無かったが、何年も連絡を取り合っていた友人が死んでも悲しめない自分は、あまりにも薄情な人間なのだろう。
その夜僕は中学のアルバムを開き、佐々木のページを見た。好きな事の欄に「音楽」と書かれた佐々木の卒業論文は、その頃好きだった曲についての考察や、どこが好きかという説明が長々と書かれていた。
本当に音楽が好きだったのだろう。大学は音大だったと聞く。将来は自分で音楽を作りたいと言っていて、僕も彼女が作る音楽を聴くのを多少楽しみにしていた。インスタグラムでは、演奏会に参加する彼女の写真を何度か目にした。
そんな様々な知識と音楽を蓄えてきた彼女が、それでも尚聴きたいと考えた曲とは果たして何だったのだろうか。彼女が死んでしまった以上、その答えが判明する事はないのだろう。
アルバムを閉じ僕は用水路へと向かった。用水路までの道のりは、僕のお気に入りの散歩コースだった。
イヤホンから僕の昔からのお気に入り、SHの『ホールスター』が流れ始めた。そう言えばこの曲は佐々木から教えてもらった曲だったなと、僕は溜池の凍った水を眺めながら思った。
*
僕が佐々木の思い出せなかった曲を探そうと決意したのは、単純に見つける事が出来そうだなと思ったからだった。加えて、かつての友人が生前探していた曲を見つける事で、本当は佐々木が死んだことによって自分の心に重大な影響を及ぼしているのだぞと、見えもしない誰かに言い訳しようとしたのかもしれない。
僕は曲探しに筆舌に尽くしがたい程の自信を持っていた。それは彼女と僕が音楽という一点に関しては極端に好みが似通っている事と、僕の几帳面な性格が影響していた。彼女がかつて一瞬でも好きだと考えた曲ならば、間違いなく僕も知っているだろう。そう断言できる程この六年間、僕達は自分の好きを共有し続けてきたのだ。
加えて僕は、放送委員の時に使用した全てのCDを今も保持していた。中学生の頃好きだった曲だと言うのならば、そのCDのどれかに入っている可能性が高いだろうと僕は考えていた。
僕は自分の勉強机の下から二番目の棚を開け、中にある白色のCDの内の一つを手に取った。中学生の頃はとても毎週違うCDを買う事など出来なかった為、こうやって大量買いした空のCDの中に、SNSからダウンロードした音楽データを書き出して僕は学校へと持っていっていたのだ。
CDには多少の傷がついていたが、リビングにあるデスクトップパソコンの中へと入れると、ガガッという音と共に中のデータがモニターに表示された。
中には五つのデータが入っていたが、どれも名前が七桁の数字になっていた為、入っているデータが何の音楽なのかは実際に聴いてみない事にはわからなかった。僕は試しに一番上のデータをダブルクリックしてみる。するとパソコンの音楽ソフトが起動し、モニターからピアノの前奏が流れ始めた。そうして十二秒ほどが経った後に、何度も聞いた事のある低い歌声が耳を伝い僕の脳みそを直接刺激した。
間違いない、これはミッドナイト・ハウスの『失踪』だ。僕は確信した。
ミッドナイト・ハウスは当時僕が最も好きだった音楽グループだった。佐々木と最初に話す事になったきっかけも、このミッドナイト・ハウスというグループが大きく関わっていた。
ミッドナイト・ハウスは当時全くの無名グループだった。彼らは個人が作ったであろう音楽投稿サイトにのみ曲をアップしており、そもそもそのサイト自体が極小数の物好きな人間のみが利用している様なサイトだった為、知名度がないのも当然の事だった。
僕はまさか彼らを知っている人間が同じ学校いるとは夢にも思わず、佐々木が彼らの話題を振ってきた時に柄にもなく冷静さを忘れ、早口で彼女に語ってしまったのを黒歴史として今でも覚えている。
当時佐々木は、メガネをかけオドオドとしている様な人間だった。成人式で会った彼女の堂々たる佇まいと比較すると、別人が乗り移ったのではないかと錯覚を覚える程の違いだった。
「昨日昼食で流した曲、ミッドナイト・ハウスの『失踪』だよね」
彼女は笑顔とも緊張とも取れるよくわからない表情で僕にそう話しかけてきた。その様なオドオドとした人間が嫌いだった僕は、普段ならば適当に流していたと思われるが、ミッドナイト・ハウスという単語を聞いた僕は、まるで誰が取り憑いたかの様に彼女の話に食らいついた。今思えば、ファーストコミュニケーションが彼らの曲でなければ、間違いなく僕達がこのような関係になることはなかっただろう。
彼女の話には音楽以外全くと言って良いほど芯がなかった。僕が形式的に日常的な会話を挟むと、途端に彼女は自身の無さそうな声色で、本当だか嘘だかわからないような言葉を返す。しかし一度音楽の話になれば、彼女は大学の専門教授のような堂々とした口調で自分の意見を話した。思うに成人式で見た彼女の堂々とした姿は、その時の人格が前面に出てきた結果なのかもしれないと僕は考えていた。彼女は彼女なりに成長していたのだろうか。
ミッドナイト・ハウスは、おそらく彼女が探していた曲ではない。何故なら彼女と最後に語った曲も、また彼らが作った曲だったからだ。ミッドナイト・ハウスは、今では国民的音楽グループの一つとなっている。佐々木が探している曲が彼らの曲だったとしたら『ミッドナイト・ハウスの曲だ』という話が出てこなければおかしいのだ。その他四つのデータも同じく彼らの曲で、僕は別のCDを勉強机から取り出し、中のCDと入れ替えた。
数時間ほどかけて、僕は何十ものCDの中のデータから候補を五つまで絞った。殆ど直感に近かったが、何となくあの中から佐々木が探そうと思うのはこの中のどれかの様な気がした。
五つの曲をもう一度聴いてみる。やはりどれもそうな気がするし、どれも違う様な気がした。決定打になり得るものがない以上、何度聴いても結果は同じだった。
そもそも、僕は何をもって佐々木が探していた曲だと決定づけるのだろうか? 唯一のこの問題に答えを提示できる人間は、既にこの世にはいない。どれだけ正解に近づこうが、仮に確証が九十九パーセントあったとしても、それが百になることはないのだ。結局僕が出来る事は、論文の様に死者がこの様な考えをしていたと勝手にでっちあげる事だけなのかもしれない。
それでもいい。だが、でっちあげるにしても僕は彼女の事を知らなさすぎていた。論文の様に彼女の考えを裏付ける書物も、残された発言も、今の僕は何も手にしてはいなかった。せいぜい持っているのは、六年間、彼女が好きと感じてきた音楽だけだった。
彼女を知る必要がある。そう思うと自然に僕の口からため息が溢れた。
僕には次に何をするべきかの目星がついていた。そしてその目星は、僕の肺の中の空気を全て排出させる程のため息を僕にもたらし続けた。
「お疲れ様です」
バイトが終わり事務所でタイムカードを切った僕は、帰り支度をする岡本雪乃にそう声をかけた。彼女もまた、僕と同じ中学を卒業した同級生だった。
「……お疲れ様です」
彼女はこちらを一瞥もせず、身支度をしながらそう返した。
僕は彼女の事が嫌いだ。そして彼女も、やはり僕の事が嫌いなのだろう。
僕と岡本は中学生時代、特にこれと言って会話をしてはこなかった。それでも僕達が互いを嫌い合っているのは、中学二年の運動会が原因だった。
運動会から大体二週間程前、彼女はクラスオリジナルTシャツを作らないかとクラス全員に提案した。勿論、運動会は指定の体操服以外を着る事は許されておらず、Tシャツを作ったところで当日着る事はできない。
それでも彼女がTシャツを作ることを提案したのは、おそらく良い思い出作りになると思ったからだろう。彼女は既に取り巻きの数人と、確定事項の様にTシャツのデザインを考えていた。
当時の僕はその状況が気に入らなかった。それを作る為に労力を割く事と、何よりそのようなくだらない物の為に千五百円も取られる事に堪らなく不快感を覚えたのだ。
問題はその事を、僕が殆どフィルターを介する事もなく直接本人に伝えてしまった事にあった。幼い人間同士の片方が油を注いでしまったら、その後どうなるかは火を見るよりも明らかだろう。罵詈雑言の互いに浴びせあった僕達は、あわや殴り合いに発展するかという所で教師達に止められた。結局Tシャツ事件は買う買わないを任意にする事によって収束を迎えたが、当然僕達は互いを憎み合いながらその後一年を過ごした。
そんな僕達が同じバイト先で働いている今の現状は、神様の悪趣味な悪戯と言わざるを得ないだろう。現に僕はこのバイト先で働き始めて一年半ほど経つが、未だ彼女と会話という会話を一度たりともしていない。
「岡本さん。ちょっといいですか」
従業員出入り口から外に出た岡本雪乃に、僕はそう声をかけた。彼女は「何ですか?」とやはりこちらを見向きもせず、自転車の鍵を鍵穴に刺し回した。
「佐々木つばさについて、少し話したい事があります」
僕は言った。彼女はハンドルにかけた手を離し、「つばさの?」と言ってこちらを少し向いた。辺りは暗く、彼女の表情はあまり良く見えなかった。
「ええ、立ち話も何ですから、そこのファミレスで話しませんか」
「…………私、金欠ですからね」
岡本は言った。
「ええ、奢りますよ」
僕がそう言うと、彼女は僕から喫茶店の場所を聞きだし自転車を漕いでいってしまった。僕は徒歩だった為、早歩きで彼女についていった。
岡本は佐々木と仲が良く、僕がコンタクトを取れる唯一の人間だった。中学だけでなく高校も一緒で家も近い。彼女が今も佐々木と連絡を取り合っていたかは知らなかったが、彼女以上の適任者は少なくとも僕には思いつかなかった。
「えーと……確か岡本さんはプログラミングの専門学校に通っているんでしたよね。やっぱり将来はゲームとか作るんですか?」
「……その敬語やめてくれない? 余計むかつくから」
岡本だって敬語だった癖に。僕はそれを無視し、バイトの地味な灰色の服に似合わない彼女の長い金髪の髪を目で追った。
「わかってると思うけど、変な気は起こさないでよね」
「ああ、大事な話なんだ。佐々木にとっても、僕達にとってもな」
僕はそう言った。実際の所大して重要ではないと思うが、岡本から情報を引き出すにはこのぐらい大袈裟の方が良いと思った。
「で、なんなのよ」
「実は佐々木が生前探してた曲があるんだ。その曲は彼女にとってとても重要なもので、僕はそれを探す為色々みんなに聞いて回ってるんだ。何でもいいから何か知らないか」
嘘をつく時は本当の事を七割、嘘を三割にすると良いと聞くので、大体その塩梅になるよう僕は岡本に話した。彼女は考えているのか、テーブルに置いてあった水を十秒ほどかけてゆっくり飲み干した。
「知らない」
彼女は言った。
「……なあ、お前が僕の事を嫌いなのは知ってる。だけど今は協力すべきだろ。佐々木の死の前では、僕達の恨みなんて塵みたいなものさ」
僕がそう言っても、彼女はそれ以降喋らなかった。仕方がないので僕はドリンクバーへ向かい、ホット専用のコップにカプチーノを入れて机へと戻った。僕が席へと戻ると同時に岡本は席を立ち、コーヒーを持って再び席へと戻ってきた。
気まずさから、カプチーノが無くなるスピードは普段より何倍も早かった。彼女も同じだった。僕が二杯目のカプチーノを持ってこようと席を立つと、今度は彼女もコップを持って席を立った。
「……あのさ、本当に何も知らないから、私」
コーヒーマシンからコーヒーが注がれるのを見ながら岡本は言った。
「高校卒業してからはあんま連絡とってなかったから。でも、そうだな……つばさと多分仲良かった人なら紹介できるかも」
僕達が席へと戻ると、僕のスマートフォンから通知音が鳴った。見ると岡本から、川口さつきなる人物の連絡先が共有されていた。
「一年前私とつばさが遊んだ時に、一緒に着いてきた人のアカウント。多分つばさと大学で一番交流があった人……だと思う」
「ありがとう」
僕の感謝の言葉に岡本は何も返さず、代わりにトマトパスタ、トマトとモッツァレラチーズ、バニラアイスを注文し、それを二十分程で胃の中へと入れた。僕はというと、それを見ながらチビチビとカプチーノを口へと運んでいた。
「あんたとつばさが仲良いの、私知らなかったんだけど」
四杯目のカプチーノに手をつけた時、岡本はそう言った。
「当然だろ。お前と僕は今日まで一言だって話してこなかったんだから」
「それは、そうだけど……」
岡本は釈然としていない様子だった。彼女の気持ちは僕にもわかる。僕も自分の友人が嫌いな人間と仲が良さそうに話している姿を見て、どこか釈然としない気持ちが湧いてきた事があった。
「……あの子にとって、音楽は全てだったんだ」
岡本はそう言った。
「つばさとは結構仲が良かったと思う。いろんな所に行ったし、互いの悩みを話したりもした。でもつばさが音楽について話している時の顔は、私と話している時よりもずっと楽しそうだったんだよ。私はあんま音楽聞かないから、つばさにそういう話を振ってあげる事は出来なかったし、そう言う相談も聞いてあげられなかった。あんたに頼むのは癪だけどさ、彼女にとって大事な音楽だって言うんなら、必ず見つけてあげてほしい」
彼女はそう言うと、自分の食べた分の代金を机に置き足早に店を出て行った。
「奢るって言ったのに……」
僕は四杯目のカプチーノを一気に飲み干した。気がつくと店内には僕以外客がおらず、店内で流れる音楽だけが、唯一この静かな空間に音をもたらし続けていた。
*
「佐々木つばさについて話があります。お時間頂けないないでしょうか」
僕は佐々木の大学一の友人(岡本曰く)、川口さつきにその様なメッセージを送った。下手に詳細を話すよりも、彼女の名前だけを出す方が興味を持ってくれると思いこの様なメッセージになった。
送ってから、果たして何をしているのだろうかと僕は思った。就職活動はあの日以降何一つとしてアクションを起こしていないし、卒業論文だって、そろそろ本格的に始めていかなくてはならない。にも関わらず僕は、故人の大事かすらわからない曲を探し求めて右往左往している。
僕は昨日話した岡本の事を思い出していた。彼女は佐々木の為ならばと、嫌いなはずの僕にできる限りの協力をしてくれた。彼女にとって佐々木の存在は、それほどまでに大きいものだったのだろう。
それに対して僕は、自身の好奇心と言い訳の為彼女の探していた曲を追っている。それに対して罪悪感を覚えている訳ではないが、こんな事は今すぐにでもやめるべきである事は間違いなかった。
それを引き止める理由はないはずだった。にも関わらず、やめようとすると心になにかモヤのようなものが生まれるのを僕は感じていた。
「自分が死んだ後の世界を考えた事はある?」
かつて友人の一人と喫茶店でコーヒーを飲んでいる時、そういう話をした事がある。
「ないよ。普段からそんな事を考えてるのか?」
僕は言った。
「うん。この人は僕が死んだ時に泣いてくれそうだな、とか」
それから話が進んで、僕達は自分達が死んだ後の世界を想像した。自分の母親は毎月種類に富んだ花を添えてくれそうとか、友人の高井はすぐにお前の事を忘れそうだ、とかだった。
「でも僕は、死んだら僕の事をすぐに忘れて欲しいと思うよ」
友人が言った。
「どうして、寂しくならないか?」
「そりゃあ寂しいよ。でも、死んで会えない時点で寂しいさ」
友人は「だから僕が死んだ時、一番気にするのは約束をしていたかどうかだと思うね。どんな些細な約束でも、その人が死んだとなったら『そういえばあいつとダーツバーに行く約束をしてたな』と、ふとした時に思い出しちゃうだろ? そしたらそいつはダーツに行くたびに悲しい気持ちになるかもしれない。それはもう呪いだよ」と続けて言っていた。
僕はきっと、佐々木に呪われているのだ。その呪いは解呪しない限り、僕の心は締め続けられるだろう。だから僕は、何としても彼女の探していた曲を見つけなくてはならないのだ。
そんな事を考えていると通知音が鳴った。川口さつきからだった。
「明後日、四時にこちらで会いましょう」
シンプルなメッセージの後に、店のURLが送られてきた。僕もよく行く近くのファミレスだった。
「了解しました」
スピーカーから流していた曲が、ミッドナイト・ハウスの「論文」へと切り替わった。大好きな曲だったが、半分ほど流れたところで僕はスピーカーの電源を落とした。
「お待たせしました」
僕が頼んだイカスミパスタを口へ運ぼうとしていると、髪の長い女性が僕に話しかけてきた。高身長、そして服装も含め全体的に黒を基調としたその姿に、同い年とは思えない威圧感を僕は覚えた。
「川口さつきさんですか?」
「はい。初めまして」
岡本から聞いていなければ、僕は彼女を佐々木の一番の友人とはとても信じなかっただろう。どころか、友人関係という所もおそらく疑っていたかもしれない。それほどまでに、彼女と佐々木では雰囲気が違かった。それは成人式の彼女と比べてもだった。
「つばさちゃんについて話があると聞きました」
彼女の威圧的な雰囲気を、僕はこちらに向けられた視線からも感じていた。僕は自分を落ち着ける為コップの水を四秒ほどかけて飲み、それから話し始めた。
「彼女。佐々木つばささんが生前とある曲を探していたのを知っていますか?」
「曲?」
彼女は心当たりがない、と言いたそうな難しい顔をしていた。相談するような悩み事ではないので当然だ。構わず僕は続ける。
「僕は生前の彼女に、その曲について心当たりがないか聞かれていました。中学生の頃好きだった曲だそうです。それを探してなにかが変わる訳ではないですが、彼女の為に何かしたいという気持ちが抑えられなくて」
岡本の時よりも真実に近い言葉で僕は話した。岡本の佐々木への向き合い方に毒されたのかもしれない。
川口さつきはしばらく黙ったままだった。何か考えている様だった。
「貴方はつばさちゃんの何なの?」
「え?」
「異性の友人が故人の為にそこまでするとはどうしても思えないのよね。付き合っていたりしたの? 何を考えているかわからない人に協力は出来ないわ」
今度は僕が黙る事になった。
彼女の意見は尤もだった。恋人でもない異性の友人が、色目以外の目的で動いているのは多少なりとも奇妙に映るだろう。ましては知らない人間なら尚更だと思う。
頭の中で、僕は彼女の何で、何の為に曲を探しているのかを考えた。「なんとなく見つけられそうだったから」とか「呪いを解く為です」とか。その様な頭の中で生まれた言葉は、すぐに霧となって消えてしまった。
「……僕は彼女の恋人ではありません。もしかすると、友人ですらなかったかもしれない」
僕は言った。その言葉を、川口は眉一つ動かさずにただじっと聞いていた。
「僕は、彼女の世界で流れる曲のファンなんです。彼女が好きだと感じた曲を僕は聴きたい。彼女が振り返って探したいと思った曲は、僕も振り返って探したいんですよ」
「へぇ……」
言ってから、先程自分が彼女の為に曲を探していると言っていたのを思い出した。これでは前の話と矛盾してしまう。「少し前に言った事には嘘がありました。すみません」と僕が自白する前に、彼女の口が開いた。
「十分な理由ね。『亡き彼女のために』なんて言われるよりはずっとましよ」
川口は顔を少し綻ばせ言った。そこには先程まで感じていた威圧感はなく、ここで初めて、僕は川口を端正な顔立ちをした女性だなと思った。これが本来の彼女なのだろう。
「貴方が邪な考えで動いている訳じゃないという事がわかった上で聞くわ。貴方、つばさちゃんが曲を探してるって言ってたわよね?」
「そうですね。もっとも、未だにわかってるのは『中学生の頃好きだった曲』だと言う事ぐらいなんですが」
喋りながら、僕は机に備えられている紙で口を拭った。イカ墨特有の黒々とした汚れは、三枚目の紙にしてようやく見えなくなった。
「それ、貴方は変だと思わない?」
「変ですか?」
最初僕の口周りの話をしているのかと思ったが、表情からそうではない事を察した。僕がイカスミパスタを食べる事を批判する人間は、もっと冷ややかな目線を僕に向けてくるからだ。
「特に思いませんが」
「本当に? つばさちゃんの記憶力は貴方も知ってるでしょう」
「……知りませんね」
僕の記憶では、佐々木は覚える事があまり得意ではなかったはずだ。彼女が僕に対して熱く語った曲を、数年後曲名ごと忘れているという現場を僕は何度か目撃している。
ファミレスに来てただずっと話をさせるのはどうにも気が引けた。話が長引く気配を感じた僕は、彼女に何か注文するよう促した。
「協力して貰うんでね。勿論奢りますよ」
彼女はドリンバーとポテトフライを注文した。せっかくなので僕は追加で抹茶アイスを頼み、食べ終わったイカ墨パスタの皿を下げてもらった。辺りは少し暗くなり初めていたが、店員は未だ忙しそうにテーブルを転々としている。
「僕の記憶では、彼女は決して記憶の良い人間ではなかったのですが」
カップにコーンポタージュを入れて戻ってきた川口に僕は言った。「彼女、かなり有名人だったのよ」と、川口はコップに手を付けずに話し始めた。
「カラオケで聞いた曲とか喫茶店で流れた曲をメモして覚えてるのよ。『どんな曲でも自分の糧になる可能性がある』ってね。ほんとストイックな子だから」
川口から聞いた話は、僕の佐々木のイメージと大きく離れていた。僕は彼女を「常に新しい音楽を求める人間」だと思っていたからだ。
「初めたのは大学からで、中学までは覚えようと思ってなかったのでは?」
僕は言った。
「ありえないわ。彼女はむしろ、中学生の頃好きな音楽を大切にしていたから」
川口曰く、佐々木以上に六年前、2017年代の曲を知っている人間はいないのだという。一度スイッチが入ってしまったら最後、大学の誰一人として話にはついていけないとの事だった。
仮にそうだとすると、疑問が残る。事実僕は佐々木から「中学の頃好きだったタイトルが思い出せない」という旨のメッセージを受け取っているという事だ。どころか、何度か彼女が忘れた曲を思い出す手伝いを僕はしている。
仮に先程の話が事実だとした場合、佐々木がタイトルを思い出せないと僕に言った事は嘘だったという事になる。そうだったとして、その様な嘘をつくメリットが果たしてあったのだろうか?
「つばさちゃんが嘘をつくとは思えないのだけれどね。何か理由があったのかしら」
川口は言った。
「…………川口さんは、どうして佐々木と仲良くなったんですか?」
「急に? 知っておく必要あるかしら」
「別にないですけど、気になって」
岡本が佐々木と一番付き合いがあると言うだけあって、川口は佐々木をかなり信頼している様に感じた。佐々木はあまり口数が多いタイプではないので、彼女達の出会いがどの様なものか、僕は少し興味を持っていた。
「同じよ。私も彼女の世界で流れる曲が好きだったの」
川口は窓を眺めて言った。先程まで僅かに残っていたオレンジ色の景色は、もうどこを探しても見えなかった。
「初めてだったのよ、音楽の趣味が合う人と出会ったのは。私は他の人達とは別の世界にいて、多少その世界が混じり合うことはあっても、私の世界にきて一緒に音楽を聴いてくれる人間はきっと一生現れないと思ってた。けどつばさちゃんは、そんな私の世界を共有できる唯一の人間だったの。嬉しくて、そんなあの子がどの様な音楽を作るのかずっと楽しみにしてた。結局一度も聞くことなく彼女の時間は止まってしまったけれども」
川口はそう言ってコーンポタージュを口へと運んだ。
「一度も? 佐々木は曲作りに励んでいるものだと思っていたんですが」
「作っていたとは思うわよ。けど結局一度として人前に出す事はしなかったわ」
意外だった。不特定多数の人間が見れる場所に公開するかはともかく、友人にすら見せていないとは思わなかった。
「ストイックな子だったって、さっき言ったわよね? つばさちゃんはいつも何かに追われる様に努力していたの。『自分には音楽しかないから』って。最近は特に酷かったわ。私はつばさちゃんに才能がないなんて微塵も思わなかったけど、彼女自身はそうは思わなかったのかもしれないわね……」
何かを思い出しながら喋っているのか、川口は一言一言を確かめる様にゆっくりと喋った。
それから先はこれといって進展はなかった。曲の正体について互いに意見を出し合ったが、何一つとして手がかりがない、ましてはその曲の存在自体が怪しくなった今議論など進むはずがなかった。
「ごめんなさいね。特に力になれなくて」
数分前に届いた抹茶アイスを食べ終わった辺りで、川口が謝罪の言葉を口にした。
「いえ、十分です。」
僕はそう答えた。川口は「また何かあったらいつでも連絡してね。家族も心配しているだろうから、今日は一度帰ります」とお金を机に置いて店を出て行った。見るとドリンクバーとポテトの料金だけでなく、僕が食べた分の料金まで置いてあった。最近の女性は、どうやら見知らぬ男性に奢られる事を拒絶したいらしい。
「すみません。このマルゲリータピザを一つお願いします」
僕は近くを通りかかった店員にそう言った。店員は変わらず店内を転々としていた。席も埋まってきていたので食べ終わったすぐに出ようと思ってはいたが、結局その日店が閉まるまで、僕はファミレスに居座っていた。
*
つばさちゃんが音楽に夢中になったのは中学生の時からだったと聞く。その頃の友達に吹奏楽部に誘われたのも一つの原因らしいが、一番はその頃聞いた音楽に心打たれたからだそうだ。その頃から、彼女は密かに作曲家を目指していらしい。
高校から音楽を学びたかったが「今将来を決めるのは勿体無い」と両親に説得され、岡本さんと同じ高校に通ったそうだ。「同級生と差ができたのはあの決断のせいだ」と、つばさちゃんはたまにぼやいていた。
私は彼女を尊敬していた。誰よりもストイックで、夢に全てをかけるその姿勢が好きだった。でも、彼女に自信がない気持ちもわかった。今でも上を見る度に、私も同じ様にうんざりとした気持ちになる。三年になって彼女が焦り出した気持ちもわかった。私達が音楽と違う道を歩む事になったら、私達は数年足踏みしていた一般人以下の人間なのだから。中学から作曲家を目指していた彼女は尚更だろう。
彼女は中学の頃に戻りたいと考えていたのだと思う。つばさちゃんの中学の同級生を名乗る人物から、つばさちゃんが曲を探していたと聞いた時思った。ありもしない曲を探すふりをして、かつての様に、純粋にあの頃の曲を語り合いたかったのではないか。
「なんて。わかった気になりすぎかしらね」
あれから数ヶ月が経った。彼も同じ事結論に達したのか、あるいは今もありもしない曲を探し続けているのか。あれ以来連絡がない為私には分からない。
私も将来も本格的将来を考えなくてはと考えていた時、例の男から連絡が来ていることに私は気がついた。
「近いうちに話せませんか」
簡潔な文章だった。もはや私達が会う理由はないはずなのだが。
案外、彼は私に惚れてしまったのかもしれない。そんな冗談を思い浮かべながらも、私はその文章に「いいですよ。またあのファミレスで会いましょう」と返した。
彼はいつもの様に先に席に着いていた。「久しぶりですね」と彼は私を見るなり言った。
「本当に。何しろ最後に会ったのは四ヶ月程前ですから」
私は言った。彼は「そんなに経っていたんですか」と少し驚いた顔をした。
「それで、今日はどのような要件で? もしかしてただのデートのお誘いでした?」
彼は「川口さん程の人間をデートに誘う勇気なんて僕にはありませんよ」と笑った。そうして少し間を置き、彼は話し始めた。
「実は、佐々木の曲が見つかったんです」
「……え?」
私はキョトンとしてしまった。なぜ彼が? という疑問よりも先に、彼女の曲が存在していた事に驚いてしまった。
「岡本って覚えてますか? 一応僕の同級生なんですが」
「……ええ、前に遊んだ事があるわ」
「彼女、少し前佐々木にパソコンの使い方を教えていたらしいんです。その時にクラウドのアカウントを代わりに作ったらしくて、先日何となくログインしてみたら、その曲が」
私は、自分が嬉しいのだか呆気に取られているのか分からなかった。二度と聞くことが出来ないと思っていた彼女の曲が、現実に存在しているのだ。
「僕は川口さんがこのデータを持っておくべきだと思います。他のデータは全部消して、もうこのCDの中以外この世のどこにもありません」
彼はバックから白色のCDを取り出し、私に渡した。
「それをどうするかは、貴方に任せようと思います。公開しても、消しても、僕は文句ありません」
「ま、待って!」
あまりにとんとん拍子に進む話に、私は待ったをかけた。
「その、あ、曲は? 貴方が探していた曲はどうなったの?」
「……そうですね」
彼は「ちょっと言うのが恥ずかしいんですが。笑わないで聞いてくださいね」と前置きをして話し始めた。
「正直なところ、僕には分からなかったんですよ。彼女が本当は記憶力が良くて、にも関わらず僕にあんなメッセージを送った意味が。僕がこの謎を解明するには、きっと佐々木を知らなすぎたんです」
彼は自嘲的な笑みを浮かべて言った。
「だから少し、考え方を変えてみました。曲を探すことに意味があるんじゃなくて、その為に動いていること自体に意味があったんじゃないかって。僕が動いたことによって岡本は曲を見つけられたし、僕はこうして貴方にその曲を渡せる。この為に佐々木は僕を呪ったんじゃないかって」
「呪う?」
「馬鹿げた話ですよね。結局は偶然を都合よく解釈しただけです。どうせなら頭のおかしいやつと笑ってもらった方が良かったかもしれません。でも少なくとも、貴方にはこの曲を聴く権利がある。偶然だとしても貴方にこうして渡せるのなら、まあ、この数ヶ月も悪くなかったのかもしれません」
彼はそう言った後、コップのコーヒを一気に口に入れた。そして財布を取り出し、お札を二枚取り出し机に置いた。
「今度こそ奢らせてくださいね」
そう言って彼は席を経った。一人になった私はやはり状況が飲み込めず、右手のCDをただぼんやりと眺めていた。
つばさちゃんがもし今も生きていたら、夢を諦めて別の道を探していただろうか? 今となっては誰にも分からない事だが、少なくとも彼女がいなかったら私は作曲家を目指さなかっただろう。
彼女の曲を聴いて、私は何度もその先の未来を想像した。未完成ながら確実に私の心を揺さぶるその曲の先を描けるのは、世界を共有した私しかいないのだ。
「同じ音楽でも、人によって思い出は違うんだ」
佐々木ちゃんは、生前そんな事を言っていた。
「音楽には思い出がある。テスト勉強をした日に聴いていた曲。お父さんの車で流れていた曲。愛犬が死んだ日に聞いた曲。人それぞれ思い出す事は違くて、聞いた人の数だけ思い出がある。そう思うと音楽を作るって、本当にすごい事だと思わない?」
今やつばさちゃんの曲にも様々な思い出がある。作曲家として苦労した日には、いつだって彼女の曲があった。私の作曲家としての人生は、彼女の音楽と共にあるといっても過言ではない。
今日は私が作った曲が公開される日だった。居ても立ってもいられず、私は最低限の装備で外へと旅出した。外は寒く、数分経って私は手袋を持ってこなかった事を後悔した。
彼女の曲は、今右手にあるスマートフォンの中だけにしか存在していない。私はイヤホンを付け、彼女の曲を再生した。
「本当、いい曲だね」
今日またこの曲に思い出ができた。冷たくなった手と、薄暗い夜の街。
「私は今、つばさちゃんの走馬灯の先を歩いている」。最近この曲を聴くとそう思う事がある。かつてこの曲を渡した男の、スピリチュアルな言葉に毒されたのかもしれない。
「呪い、ね」
どうせ呪うなら化けて顔の一つでも見せてくれれば良いのに。馬鹿馬鹿しい事だが、音楽が大好きな彼女なら今日ぐらいは本当に化けて出てきそうで、私は急いで家に帰った。
僕は既にその企業の書類と課題の選考を突破しており、二度ある面接の内、一つ目を突破出来るか否かの結果がその日送られてきた。おそらくコピーアンドペーストをしたと思われるその丁寧な文章は、まるで最初からお前は機械を相手にしていただけだと言われている様な気分になり、たまらず僕はSNSへと逃げた。そうして逃げ込んだSNSの一番上に、彼女はいた。
佐々木つばさと僕は、傍から見れば奇妙に感じるであろう友人関係を築いていた。それは異性同士でありながら、こうして六年間もやり取りをしているという状況以上に、単純に一友人関係として奇妙なものであった。
彼女とは中学の放送委員で一緒だった。クラスは一組と七組とで最も遠く、僕は七組に友人がいなかった為、放送委員の集まり以外で彼女と会う事は殆ど無かった。せいぜい集会の時に、何回かすれ違った程度だと思う。
そんな僕達が重なったきっかけは音楽だった。元々僕が放送委員に入った理由は、昼の昼食時に自分の好きな音楽を合法的に流す事が出来るからだった。そうして昼食時に当時好きだった音楽を流して四ヶ月程経った後、集会の時に彼女の方から僕に話しかけてきた。
僕達は驚くほどに価値観が違ったが、不思議と音楽の趣味だけは合った。特定のグループだけではなく、偶然知った曲や、新しく出た曲、僕が好きと感じた曲は彼女も好きで、彼女が好きと感じた曲は、やはり僕も好きになった。
後に集会の時だけでは飽き足らず、僕達はSNSで、自分の好きな音楽が見つかった時のみ連絡を取り合うことになり、そしてそれは大学四年生になった今も続いていた。
音楽の趣味が合う友人は貴重だ。二十二年間、大小様々な人間関係を築いてきたが、ここまで音楽の趣味が合う人間は佐々木ただ一人だけだった。音楽というジャンルはどうも好きを共有しづらく、その足りない部分を補える存在は、お互いにとって未だ変え難いものだと思う。
「中学の頃好きだった曲のタイトルが思い出せなくて、鈴木君知らない?」
佐々木が送ってきたメールはあまりにも抽象的だった。僕が「どんな感じの曲?」とメールを返しても「優しい曲」や「マニアックな曲」など、あまり役に立ちそうにない返事が返ってくるだけだった。佐々木は自分の好きな曲を発掘する天才だったが、その分かつて好きだった曲を忘れるスピードが早かった。ましては中学生の頃好きだった曲となれば、彼女に残っている情報は殆ど無いに等しいのだろう。
「力になれそうにない」
そこまで打った文字を消し、代わりに僕は彼女を喫茶店へと誘った。直接会えば、文字では伝わらない細かな部分から推測が出来るかもしれない。建前上そうは言ったが、その時の僕は彼女の忘れた曲のタイトルの事など全く何とも思ってはいなかった。恥ずかしさを感じないちょうど良い話し相手、それがその時の僕には必要だった。
彼女が交通事故で死んだと聞いたのは、それから二ヶ月程経った頃だった。
あの後予定を決める為、何度かメールをしても返事が無かったので変だとは思ってはいたが、噂好きな友人から教えてもらわなければ、きっと僕は一生知る事は無かっただろう。
驚きはあったが、これといって悲しくは無かった。連絡の頻度が高かった訳でも、顔を合わせていた訳でも無かったが、何年も連絡を取り合っていた友人が死んでも悲しめない自分は、あまりにも薄情な人間なのだろう。
その夜僕は中学のアルバムを開き、佐々木のページを見た。好きな事の欄に「音楽」と書かれた佐々木の卒業論文は、その頃好きだった曲についての考察や、どこが好きかという説明が長々と書かれていた。
本当に音楽が好きだったのだろう。大学は音大だったと聞く。将来は自分で音楽を作りたいと言っていて、僕も彼女が作る音楽を聴くのを多少楽しみにしていた。インスタグラムでは、演奏会に参加する彼女の写真を何度か目にした。
そんな様々な知識と音楽を蓄えてきた彼女が、それでも尚聴きたいと考えた曲とは果たして何だったのだろうか。彼女が死んでしまった以上、その答えが判明する事はないのだろう。
アルバムを閉じ僕は用水路へと向かった。用水路までの道のりは、僕のお気に入りの散歩コースだった。
イヤホンから僕の昔からのお気に入り、SHの『ホールスター』が流れ始めた。そう言えばこの曲は佐々木から教えてもらった曲だったなと、僕は溜池の凍った水を眺めながら思った。
*
僕が佐々木の思い出せなかった曲を探そうと決意したのは、単純に見つける事が出来そうだなと思ったからだった。加えて、かつての友人が生前探していた曲を見つける事で、本当は佐々木が死んだことによって自分の心に重大な影響を及ぼしているのだぞと、見えもしない誰かに言い訳しようとしたのかもしれない。
僕は曲探しに筆舌に尽くしがたい程の自信を持っていた。それは彼女と僕が音楽という一点に関しては極端に好みが似通っている事と、僕の几帳面な性格が影響していた。彼女がかつて一瞬でも好きだと考えた曲ならば、間違いなく僕も知っているだろう。そう断言できる程この六年間、僕達は自分の好きを共有し続けてきたのだ。
加えて僕は、放送委員の時に使用した全てのCDを今も保持していた。中学生の頃好きだった曲だと言うのならば、そのCDのどれかに入っている可能性が高いだろうと僕は考えていた。
僕は自分の勉強机の下から二番目の棚を開け、中にある白色のCDの内の一つを手に取った。中学生の頃はとても毎週違うCDを買う事など出来なかった為、こうやって大量買いした空のCDの中に、SNSからダウンロードした音楽データを書き出して僕は学校へと持っていっていたのだ。
CDには多少の傷がついていたが、リビングにあるデスクトップパソコンの中へと入れると、ガガッという音と共に中のデータがモニターに表示された。
中には五つのデータが入っていたが、どれも名前が七桁の数字になっていた為、入っているデータが何の音楽なのかは実際に聴いてみない事にはわからなかった。僕は試しに一番上のデータをダブルクリックしてみる。するとパソコンの音楽ソフトが起動し、モニターからピアノの前奏が流れ始めた。そうして十二秒ほどが経った後に、何度も聞いた事のある低い歌声が耳を伝い僕の脳みそを直接刺激した。
間違いない、これはミッドナイト・ハウスの『失踪』だ。僕は確信した。
ミッドナイト・ハウスは当時僕が最も好きだった音楽グループだった。佐々木と最初に話す事になったきっかけも、このミッドナイト・ハウスというグループが大きく関わっていた。
ミッドナイト・ハウスは当時全くの無名グループだった。彼らは個人が作ったであろう音楽投稿サイトにのみ曲をアップしており、そもそもそのサイト自体が極小数の物好きな人間のみが利用している様なサイトだった為、知名度がないのも当然の事だった。
僕はまさか彼らを知っている人間が同じ学校いるとは夢にも思わず、佐々木が彼らの話題を振ってきた時に柄にもなく冷静さを忘れ、早口で彼女に語ってしまったのを黒歴史として今でも覚えている。
当時佐々木は、メガネをかけオドオドとしている様な人間だった。成人式で会った彼女の堂々たる佇まいと比較すると、別人が乗り移ったのではないかと錯覚を覚える程の違いだった。
「昨日昼食で流した曲、ミッドナイト・ハウスの『失踪』だよね」
彼女は笑顔とも緊張とも取れるよくわからない表情で僕にそう話しかけてきた。その様なオドオドとした人間が嫌いだった僕は、普段ならば適当に流していたと思われるが、ミッドナイト・ハウスという単語を聞いた僕は、まるで誰が取り憑いたかの様に彼女の話に食らいついた。今思えば、ファーストコミュニケーションが彼らの曲でなければ、間違いなく僕達がこのような関係になることはなかっただろう。
彼女の話には音楽以外全くと言って良いほど芯がなかった。僕が形式的に日常的な会話を挟むと、途端に彼女は自身の無さそうな声色で、本当だか嘘だかわからないような言葉を返す。しかし一度音楽の話になれば、彼女は大学の専門教授のような堂々とした口調で自分の意見を話した。思うに成人式で見た彼女の堂々とした姿は、その時の人格が前面に出てきた結果なのかもしれないと僕は考えていた。彼女は彼女なりに成長していたのだろうか。
ミッドナイト・ハウスは、おそらく彼女が探していた曲ではない。何故なら彼女と最後に語った曲も、また彼らが作った曲だったからだ。ミッドナイト・ハウスは、今では国民的音楽グループの一つとなっている。佐々木が探している曲が彼らの曲だったとしたら『ミッドナイト・ハウスの曲だ』という話が出てこなければおかしいのだ。その他四つのデータも同じく彼らの曲で、僕は別のCDを勉強机から取り出し、中のCDと入れ替えた。
数時間ほどかけて、僕は何十ものCDの中のデータから候補を五つまで絞った。殆ど直感に近かったが、何となくあの中から佐々木が探そうと思うのはこの中のどれかの様な気がした。
五つの曲をもう一度聴いてみる。やはりどれもそうな気がするし、どれも違う様な気がした。決定打になり得るものがない以上、何度聴いても結果は同じだった。
そもそも、僕は何をもって佐々木が探していた曲だと決定づけるのだろうか? 唯一のこの問題に答えを提示できる人間は、既にこの世にはいない。どれだけ正解に近づこうが、仮に確証が九十九パーセントあったとしても、それが百になることはないのだ。結局僕が出来る事は、論文の様に死者がこの様な考えをしていたと勝手にでっちあげる事だけなのかもしれない。
それでもいい。だが、でっちあげるにしても僕は彼女の事を知らなさすぎていた。論文の様に彼女の考えを裏付ける書物も、残された発言も、今の僕は何も手にしてはいなかった。せいぜい持っているのは、六年間、彼女が好きと感じてきた音楽だけだった。
彼女を知る必要がある。そう思うと自然に僕の口からため息が溢れた。
僕には次に何をするべきかの目星がついていた。そしてその目星は、僕の肺の中の空気を全て排出させる程のため息を僕にもたらし続けた。
「お疲れ様です」
バイトが終わり事務所でタイムカードを切った僕は、帰り支度をする岡本雪乃にそう声をかけた。彼女もまた、僕と同じ中学を卒業した同級生だった。
「……お疲れ様です」
彼女はこちらを一瞥もせず、身支度をしながらそう返した。
僕は彼女の事が嫌いだ。そして彼女も、やはり僕の事が嫌いなのだろう。
僕と岡本は中学生時代、特にこれと言って会話をしてはこなかった。それでも僕達が互いを嫌い合っているのは、中学二年の運動会が原因だった。
運動会から大体二週間程前、彼女はクラスオリジナルTシャツを作らないかとクラス全員に提案した。勿論、運動会は指定の体操服以外を着る事は許されておらず、Tシャツを作ったところで当日着る事はできない。
それでも彼女がTシャツを作ることを提案したのは、おそらく良い思い出作りになると思ったからだろう。彼女は既に取り巻きの数人と、確定事項の様にTシャツのデザインを考えていた。
当時の僕はその状況が気に入らなかった。それを作る為に労力を割く事と、何よりそのようなくだらない物の為に千五百円も取られる事に堪らなく不快感を覚えたのだ。
問題はその事を、僕が殆どフィルターを介する事もなく直接本人に伝えてしまった事にあった。幼い人間同士の片方が油を注いでしまったら、その後どうなるかは火を見るよりも明らかだろう。罵詈雑言の互いに浴びせあった僕達は、あわや殴り合いに発展するかという所で教師達に止められた。結局Tシャツ事件は買う買わないを任意にする事によって収束を迎えたが、当然僕達は互いを憎み合いながらその後一年を過ごした。
そんな僕達が同じバイト先で働いている今の現状は、神様の悪趣味な悪戯と言わざるを得ないだろう。現に僕はこのバイト先で働き始めて一年半ほど経つが、未だ彼女と会話という会話を一度たりともしていない。
「岡本さん。ちょっといいですか」
従業員出入り口から外に出た岡本雪乃に、僕はそう声をかけた。彼女は「何ですか?」とやはりこちらを見向きもせず、自転車の鍵を鍵穴に刺し回した。
「佐々木つばさについて、少し話したい事があります」
僕は言った。彼女はハンドルにかけた手を離し、「つばさの?」と言ってこちらを少し向いた。辺りは暗く、彼女の表情はあまり良く見えなかった。
「ええ、立ち話も何ですから、そこのファミレスで話しませんか」
「…………私、金欠ですからね」
岡本は言った。
「ええ、奢りますよ」
僕がそう言うと、彼女は僕から喫茶店の場所を聞きだし自転車を漕いでいってしまった。僕は徒歩だった為、早歩きで彼女についていった。
岡本は佐々木と仲が良く、僕がコンタクトを取れる唯一の人間だった。中学だけでなく高校も一緒で家も近い。彼女が今も佐々木と連絡を取り合っていたかは知らなかったが、彼女以上の適任者は少なくとも僕には思いつかなかった。
「えーと……確か岡本さんはプログラミングの専門学校に通っているんでしたよね。やっぱり将来はゲームとか作るんですか?」
「……その敬語やめてくれない? 余計むかつくから」
岡本だって敬語だった癖に。僕はそれを無視し、バイトの地味な灰色の服に似合わない彼女の長い金髪の髪を目で追った。
「わかってると思うけど、変な気は起こさないでよね」
「ああ、大事な話なんだ。佐々木にとっても、僕達にとってもな」
僕はそう言った。実際の所大して重要ではないと思うが、岡本から情報を引き出すにはこのぐらい大袈裟の方が良いと思った。
「で、なんなのよ」
「実は佐々木が生前探してた曲があるんだ。その曲は彼女にとってとても重要なもので、僕はそれを探す為色々みんなに聞いて回ってるんだ。何でもいいから何か知らないか」
嘘をつく時は本当の事を七割、嘘を三割にすると良いと聞くので、大体その塩梅になるよう僕は岡本に話した。彼女は考えているのか、テーブルに置いてあった水を十秒ほどかけてゆっくり飲み干した。
「知らない」
彼女は言った。
「……なあ、お前が僕の事を嫌いなのは知ってる。だけど今は協力すべきだろ。佐々木の死の前では、僕達の恨みなんて塵みたいなものさ」
僕がそう言っても、彼女はそれ以降喋らなかった。仕方がないので僕はドリンクバーへ向かい、ホット専用のコップにカプチーノを入れて机へと戻った。僕が席へと戻ると同時に岡本は席を立ち、コーヒーを持って再び席へと戻ってきた。
気まずさから、カプチーノが無くなるスピードは普段より何倍も早かった。彼女も同じだった。僕が二杯目のカプチーノを持ってこようと席を立つと、今度は彼女もコップを持って席を立った。
「……あのさ、本当に何も知らないから、私」
コーヒーマシンからコーヒーが注がれるのを見ながら岡本は言った。
「高校卒業してからはあんま連絡とってなかったから。でも、そうだな……つばさと多分仲良かった人なら紹介できるかも」
僕達が席へと戻ると、僕のスマートフォンから通知音が鳴った。見ると岡本から、川口さつきなる人物の連絡先が共有されていた。
「一年前私とつばさが遊んだ時に、一緒に着いてきた人のアカウント。多分つばさと大学で一番交流があった人……だと思う」
「ありがとう」
僕の感謝の言葉に岡本は何も返さず、代わりにトマトパスタ、トマトとモッツァレラチーズ、バニラアイスを注文し、それを二十分程で胃の中へと入れた。僕はというと、それを見ながらチビチビとカプチーノを口へと運んでいた。
「あんたとつばさが仲良いの、私知らなかったんだけど」
四杯目のカプチーノに手をつけた時、岡本はそう言った。
「当然だろ。お前と僕は今日まで一言だって話してこなかったんだから」
「それは、そうだけど……」
岡本は釈然としていない様子だった。彼女の気持ちは僕にもわかる。僕も自分の友人が嫌いな人間と仲が良さそうに話している姿を見て、どこか釈然としない気持ちが湧いてきた事があった。
「……あの子にとって、音楽は全てだったんだ」
岡本はそう言った。
「つばさとは結構仲が良かったと思う。いろんな所に行ったし、互いの悩みを話したりもした。でもつばさが音楽について話している時の顔は、私と話している時よりもずっと楽しそうだったんだよ。私はあんま音楽聞かないから、つばさにそういう話を振ってあげる事は出来なかったし、そう言う相談も聞いてあげられなかった。あんたに頼むのは癪だけどさ、彼女にとって大事な音楽だって言うんなら、必ず見つけてあげてほしい」
彼女はそう言うと、自分の食べた分の代金を机に置き足早に店を出て行った。
「奢るって言ったのに……」
僕は四杯目のカプチーノを一気に飲み干した。気がつくと店内には僕以外客がおらず、店内で流れる音楽だけが、唯一この静かな空間に音をもたらし続けていた。
*
「佐々木つばさについて話があります。お時間頂けないないでしょうか」
僕は佐々木の大学一の友人(岡本曰く)、川口さつきにその様なメッセージを送った。下手に詳細を話すよりも、彼女の名前だけを出す方が興味を持ってくれると思いこの様なメッセージになった。
送ってから、果たして何をしているのだろうかと僕は思った。就職活動はあの日以降何一つとしてアクションを起こしていないし、卒業論文だって、そろそろ本格的に始めていかなくてはならない。にも関わらず僕は、故人の大事かすらわからない曲を探し求めて右往左往している。
僕は昨日話した岡本の事を思い出していた。彼女は佐々木の為ならばと、嫌いなはずの僕にできる限りの協力をしてくれた。彼女にとって佐々木の存在は、それほどまでに大きいものだったのだろう。
それに対して僕は、自身の好奇心と言い訳の為彼女の探していた曲を追っている。それに対して罪悪感を覚えている訳ではないが、こんな事は今すぐにでもやめるべきである事は間違いなかった。
それを引き止める理由はないはずだった。にも関わらず、やめようとすると心になにかモヤのようなものが生まれるのを僕は感じていた。
「自分が死んだ後の世界を考えた事はある?」
かつて友人の一人と喫茶店でコーヒーを飲んでいる時、そういう話をした事がある。
「ないよ。普段からそんな事を考えてるのか?」
僕は言った。
「うん。この人は僕が死んだ時に泣いてくれそうだな、とか」
それから話が進んで、僕達は自分達が死んだ後の世界を想像した。自分の母親は毎月種類に富んだ花を添えてくれそうとか、友人の高井はすぐにお前の事を忘れそうだ、とかだった。
「でも僕は、死んだら僕の事をすぐに忘れて欲しいと思うよ」
友人が言った。
「どうして、寂しくならないか?」
「そりゃあ寂しいよ。でも、死んで会えない時点で寂しいさ」
友人は「だから僕が死んだ時、一番気にするのは約束をしていたかどうかだと思うね。どんな些細な約束でも、その人が死んだとなったら『そういえばあいつとダーツバーに行く約束をしてたな』と、ふとした時に思い出しちゃうだろ? そしたらそいつはダーツに行くたびに悲しい気持ちになるかもしれない。それはもう呪いだよ」と続けて言っていた。
僕はきっと、佐々木に呪われているのだ。その呪いは解呪しない限り、僕の心は締め続けられるだろう。だから僕は、何としても彼女の探していた曲を見つけなくてはならないのだ。
そんな事を考えていると通知音が鳴った。川口さつきからだった。
「明後日、四時にこちらで会いましょう」
シンプルなメッセージの後に、店のURLが送られてきた。僕もよく行く近くのファミレスだった。
「了解しました」
スピーカーから流していた曲が、ミッドナイト・ハウスの「論文」へと切り替わった。大好きな曲だったが、半分ほど流れたところで僕はスピーカーの電源を落とした。
「お待たせしました」
僕が頼んだイカスミパスタを口へ運ぼうとしていると、髪の長い女性が僕に話しかけてきた。高身長、そして服装も含め全体的に黒を基調としたその姿に、同い年とは思えない威圧感を僕は覚えた。
「川口さつきさんですか?」
「はい。初めまして」
岡本から聞いていなければ、僕は彼女を佐々木の一番の友人とはとても信じなかっただろう。どころか、友人関係という所もおそらく疑っていたかもしれない。それほどまでに、彼女と佐々木では雰囲気が違かった。それは成人式の彼女と比べてもだった。
「つばさちゃんについて話があると聞きました」
彼女の威圧的な雰囲気を、僕はこちらに向けられた視線からも感じていた。僕は自分を落ち着ける為コップの水を四秒ほどかけて飲み、それから話し始めた。
「彼女。佐々木つばささんが生前とある曲を探していたのを知っていますか?」
「曲?」
彼女は心当たりがない、と言いたそうな難しい顔をしていた。相談するような悩み事ではないので当然だ。構わず僕は続ける。
「僕は生前の彼女に、その曲について心当たりがないか聞かれていました。中学生の頃好きだった曲だそうです。それを探してなにかが変わる訳ではないですが、彼女の為に何かしたいという気持ちが抑えられなくて」
岡本の時よりも真実に近い言葉で僕は話した。岡本の佐々木への向き合い方に毒されたのかもしれない。
川口さつきはしばらく黙ったままだった。何か考えている様だった。
「貴方はつばさちゃんの何なの?」
「え?」
「異性の友人が故人の為にそこまでするとはどうしても思えないのよね。付き合っていたりしたの? 何を考えているかわからない人に協力は出来ないわ」
今度は僕が黙る事になった。
彼女の意見は尤もだった。恋人でもない異性の友人が、色目以外の目的で動いているのは多少なりとも奇妙に映るだろう。ましては知らない人間なら尚更だと思う。
頭の中で、僕は彼女の何で、何の為に曲を探しているのかを考えた。「なんとなく見つけられそうだったから」とか「呪いを解く為です」とか。その様な頭の中で生まれた言葉は、すぐに霧となって消えてしまった。
「……僕は彼女の恋人ではありません。もしかすると、友人ですらなかったかもしれない」
僕は言った。その言葉を、川口は眉一つ動かさずにただじっと聞いていた。
「僕は、彼女の世界で流れる曲のファンなんです。彼女が好きだと感じた曲を僕は聴きたい。彼女が振り返って探したいと思った曲は、僕も振り返って探したいんですよ」
「へぇ……」
言ってから、先程自分が彼女の為に曲を探していると言っていたのを思い出した。これでは前の話と矛盾してしまう。「少し前に言った事には嘘がありました。すみません」と僕が自白する前に、彼女の口が開いた。
「十分な理由ね。『亡き彼女のために』なんて言われるよりはずっとましよ」
川口は顔を少し綻ばせ言った。そこには先程まで感じていた威圧感はなく、ここで初めて、僕は川口を端正な顔立ちをした女性だなと思った。これが本来の彼女なのだろう。
「貴方が邪な考えで動いている訳じゃないという事がわかった上で聞くわ。貴方、つばさちゃんが曲を探してるって言ってたわよね?」
「そうですね。もっとも、未だにわかってるのは『中学生の頃好きだった曲』だと言う事ぐらいなんですが」
喋りながら、僕は机に備えられている紙で口を拭った。イカ墨特有の黒々とした汚れは、三枚目の紙にしてようやく見えなくなった。
「それ、貴方は変だと思わない?」
「変ですか?」
最初僕の口周りの話をしているのかと思ったが、表情からそうではない事を察した。僕がイカスミパスタを食べる事を批判する人間は、もっと冷ややかな目線を僕に向けてくるからだ。
「特に思いませんが」
「本当に? つばさちゃんの記憶力は貴方も知ってるでしょう」
「……知りませんね」
僕の記憶では、佐々木は覚える事があまり得意ではなかったはずだ。彼女が僕に対して熱く語った曲を、数年後曲名ごと忘れているという現場を僕は何度か目撃している。
ファミレスに来てただずっと話をさせるのはどうにも気が引けた。話が長引く気配を感じた僕は、彼女に何か注文するよう促した。
「協力して貰うんでね。勿論奢りますよ」
彼女はドリンバーとポテトフライを注文した。せっかくなので僕は追加で抹茶アイスを頼み、食べ終わったイカ墨パスタの皿を下げてもらった。辺りは少し暗くなり初めていたが、店員は未だ忙しそうにテーブルを転々としている。
「僕の記憶では、彼女は決して記憶の良い人間ではなかったのですが」
カップにコーンポタージュを入れて戻ってきた川口に僕は言った。「彼女、かなり有名人だったのよ」と、川口はコップに手を付けずに話し始めた。
「カラオケで聞いた曲とか喫茶店で流れた曲をメモして覚えてるのよ。『どんな曲でも自分の糧になる可能性がある』ってね。ほんとストイックな子だから」
川口から聞いた話は、僕の佐々木のイメージと大きく離れていた。僕は彼女を「常に新しい音楽を求める人間」だと思っていたからだ。
「初めたのは大学からで、中学までは覚えようと思ってなかったのでは?」
僕は言った。
「ありえないわ。彼女はむしろ、中学生の頃好きな音楽を大切にしていたから」
川口曰く、佐々木以上に六年前、2017年代の曲を知っている人間はいないのだという。一度スイッチが入ってしまったら最後、大学の誰一人として話にはついていけないとの事だった。
仮にそうだとすると、疑問が残る。事実僕は佐々木から「中学の頃好きだったタイトルが思い出せない」という旨のメッセージを受け取っているという事だ。どころか、何度か彼女が忘れた曲を思い出す手伝いを僕はしている。
仮に先程の話が事実だとした場合、佐々木がタイトルを思い出せないと僕に言った事は嘘だったという事になる。そうだったとして、その様な嘘をつくメリットが果たしてあったのだろうか?
「つばさちゃんが嘘をつくとは思えないのだけれどね。何か理由があったのかしら」
川口は言った。
「…………川口さんは、どうして佐々木と仲良くなったんですか?」
「急に? 知っておく必要あるかしら」
「別にないですけど、気になって」
岡本が佐々木と一番付き合いがあると言うだけあって、川口は佐々木をかなり信頼している様に感じた。佐々木はあまり口数が多いタイプではないので、彼女達の出会いがどの様なものか、僕は少し興味を持っていた。
「同じよ。私も彼女の世界で流れる曲が好きだったの」
川口は窓を眺めて言った。先程まで僅かに残っていたオレンジ色の景色は、もうどこを探しても見えなかった。
「初めてだったのよ、音楽の趣味が合う人と出会ったのは。私は他の人達とは別の世界にいて、多少その世界が混じり合うことはあっても、私の世界にきて一緒に音楽を聴いてくれる人間はきっと一生現れないと思ってた。けどつばさちゃんは、そんな私の世界を共有できる唯一の人間だったの。嬉しくて、そんなあの子がどの様な音楽を作るのかずっと楽しみにしてた。結局一度も聞くことなく彼女の時間は止まってしまったけれども」
川口はそう言ってコーンポタージュを口へと運んだ。
「一度も? 佐々木は曲作りに励んでいるものだと思っていたんですが」
「作っていたとは思うわよ。けど結局一度として人前に出す事はしなかったわ」
意外だった。不特定多数の人間が見れる場所に公開するかはともかく、友人にすら見せていないとは思わなかった。
「ストイックな子だったって、さっき言ったわよね? つばさちゃんはいつも何かに追われる様に努力していたの。『自分には音楽しかないから』って。最近は特に酷かったわ。私はつばさちゃんに才能がないなんて微塵も思わなかったけど、彼女自身はそうは思わなかったのかもしれないわね……」
何かを思い出しながら喋っているのか、川口は一言一言を確かめる様にゆっくりと喋った。
それから先はこれといって進展はなかった。曲の正体について互いに意見を出し合ったが、何一つとして手がかりがない、ましてはその曲の存在自体が怪しくなった今議論など進むはずがなかった。
「ごめんなさいね。特に力になれなくて」
数分前に届いた抹茶アイスを食べ終わった辺りで、川口が謝罪の言葉を口にした。
「いえ、十分です。」
僕はそう答えた。川口は「また何かあったらいつでも連絡してね。家族も心配しているだろうから、今日は一度帰ります」とお金を机に置いて店を出て行った。見るとドリンクバーとポテトの料金だけでなく、僕が食べた分の料金まで置いてあった。最近の女性は、どうやら見知らぬ男性に奢られる事を拒絶したいらしい。
「すみません。このマルゲリータピザを一つお願いします」
僕は近くを通りかかった店員にそう言った。店員は変わらず店内を転々としていた。席も埋まってきていたので食べ終わったすぐに出ようと思ってはいたが、結局その日店が閉まるまで、僕はファミレスに居座っていた。
*
つばさちゃんが音楽に夢中になったのは中学生の時からだったと聞く。その頃の友達に吹奏楽部に誘われたのも一つの原因らしいが、一番はその頃聞いた音楽に心打たれたからだそうだ。その頃から、彼女は密かに作曲家を目指していらしい。
高校から音楽を学びたかったが「今将来を決めるのは勿体無い」と両親に説得され、岡本さんと同じ高校に通ったそうだ。「同級生と差ができたのはあの決断のせいだ」と、つばさちゃんはたまにぼやいていた。
私は彼女を尊敬していた。誰よりもストイックで、夢に全てをかけるその姿勢が好きだった。でも、彼女に自信がない気持ちもわかった。今でも上を見る度に、私も同じ様にうんざりとした気持ちになる。三年になって彼女が焦り出した気持ちもわかった。私達が音楽と違う道を歩む事になったら、私達は数年足踏みしていた一般人以下の人間なのだから。中学から作曲家を目指していた彼女は尚更だろう。
彼女は中学の頃に戻りたいと考えていたのだと思う。つばさちゃんの中学の同級生を名乗る人物から、つばさちゃんが曲を探していたと聞いた時思った。ありもしない曲を探すふりをして、かつての様に、純粋にあの頃の曲を語り合いたかったのではないか。
「なんて。わかった気になりすぎかしらね」
あれから数ヶ月が経った。彼も同じ事結論に達したのか、あるいは今もありもしない曲を探し続けているのか。あれ以来連絡がない為私には分からない。
私も将来も本格的将来を考えなくてはと考えていた時、例の男から連絡が来ていることに私は気がついた。
「近いうちに話せませんか」
簡潔な文章だった。もはや私達が会う理由はないはずなのだが。
案外、彼は私に惚れてしまったのかもしれない。そんな冗談を思い浮かべながらも、私はその文章に「いいですよ。またあのファミレスで会いましょう」と返した。
彼はいつもの様に先に席に着いていた。「久しぶりですね」と彼は私を見るなり言った。
「本当に。何しろ最後に会ったのは四ヶ月程前ですから」
私は言った。彼は「そんなに経っていたんですか」と少し驚いた顔をした。
「それで、今日はどのような要件で? もしかしてただのデートのお誘いでした?」
彼は「川口さん程の人間をデートに誘う勇気なんて僕にはありませんよ」と笑った。そうして少し間を置き、彼は話し始めた。
「実は、佐々木の曲が見つかったんです」
「……え?」
私はキョトンとしてしまった。なぜ彼が? という疑問よりも先に、彼女の曲が存在していた事に驚いてしまった。
「岡本って覚えてますか? 一応僕の同級生なんですが」
「……ええ、前に遊んだ事があるわ」
「彼女、少し前佐々木にパソコンの使い方を教えていたらしいんです。その時にクラウドのアカウントを代わりに作ったらしくて、先日何となくログインしてみたら、その曲が」
私は、自分が嬉しいのだか呆気に取られているのか分からなかった。二度と聞くことが出来ないと思っていた彼女の曲が、現実に存在しているのだ。
「僕は川口さんがこのデータを持っておくべきだと思います。他のデータは全部消して、もうこのCDの中以外この世のどこにもありません」
彼はバックから白色のCDを取り出し、私に渡した。
「それをどうするかは、貴方に任せようと思います。公開しても、消しても、僕は文句ありません」
「ま、待って!」
あまりにとんとん拍子に進む話に、私は待ったをかけた。
「その、あ、曲は? 貴方が探していた曲はどうなったの?」
「……そうですね」
彼は「ちょっと言うのが恥ずかしいんですが。笑わないで聞いてくださいね」と前置きをして話し始めた。
「正直なところ、僕には分からなかったんですよ。彼女が本当は記憶力が良くて、にも関わらず僕にあんなメッセージを送った意味が。僕がこの謎を解明するには、きっと佐々木を知らなすぎたんです」
彼は自嘲的な笑みを浮かべて言った。
「だから少し、考え方を変えてみました。曲を探すことに意味があるんじゃなくて、その為に動いていること自体に意味があったんじゃないかって。僕が動いたことによって岡本は曲を見つけられたし、僕はこうして貴方にその曲を渡せる。この為に佐々木は僕を呪ったんじゃないかって」
「呪う?」
「馬鹿げた話ですよね。結局は偶然を都合よく解釈しただけです。どうせなら頭のおかしいやつと笑ってもらった方が良かったかもしれません。でも少なくとも、貴方にはこの曲を聴く権利がある。偶然だとしても貴方にこうして渡せるのなら、まあ、この数ヶ月も悪くなかったのかもしれません」
彼はそう言った後、コップのコーヒを一気に口に入れた。そして財布を取り出し、お札を二枚取り出し机に置いた。
「今度こそ奢らせてくださいね」
そう言って彼は席を経った。一人になった私はやはり状況が飲み込めず、右手のCDをただぼんやりと眺めていた。
つばさちゃんがもし今も生きていたら、夢を諦めて別の道を探していただろうか? 今となっては誰にも分からない事だが、少なくとも彼女がいなかったら私は作曲家を目指さなかっただろう。
彼女の曲を聴いて、私は何度もその先の未来を想像した。未完成ながら確実に私の心を揺さぶるその曲の先を描けるのは、世界を共有した私しかいないのだ。
「同じ音楽でも、人によって思い出は違うんだ」
佐々木ちゃんは、生前そんな事を言っていた。
「音楽には思い出がある。テスト勉強をした日に聴いていた曲。お父さんの車で流れていた曲。愛犬が死んだ日に聞いた曲。人それぞれ思い出す事は違くて、聞いた人の数だけ思い出がある。そう思うと音楽を作るって、本当にすごい事だと思わない?」
今やつばさちゃんの曲にも様々な思い出がある。作曲家として苦労した日には、いつだって彼女の曲があった。私の作曲家としての人生は、彼女の音楽と共にあるといっても過言ではない。
今日は私が作った曲が公開される日だった。居ても立ってもいられず、私は最低限の装備で外へと旅出した。外は寒く、数分経って私は手袋を持ってこなかった事を後悔した。
彼女の曲は、今右手にあるスマートフォンの中だけにしか存在していない。私はイヤホンを付け、彼女の曲を再生した。
「本当、いい曲だね」
今日またこの曲に思い出ができた。冷たくなった手と、薄暗い夜の街。
「私は今、つばさちゃんの走馬灯の先を歩いている」。最近この曲を聴くとそう思う事がある。かつてこの曲を渡した男の、スピリチュアルな言葉に毒されたのかもしれない。
「呪い、ね」
どうせ呪うなら化けて顔の一つでも見せてくれれば良いのに。馬鹿馬鹿しい事だが、音楽が大好きな彼女なら今日ぐらいは本当に化けて出てきそうで、私は急いで家に帰った。