zorozoro - 文芸寄港

フフー・ナムジル 〜馬頭琴起源譚〜

2024/07/10 05:55:07
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 徴兵とはいえ、これほどに故郷を離れるのはこれが初めてだった。期間も、距離も。
 フフー・ナムジルは、草原に吹き渡る清らかな風を肺いっぱいに溜め、ゆっくりと吐き出す。新鮮な冷えた空気はまるで胸中を濾過するようで、昨夜までわだかまっていた不安や迷いはいつのまにか晴れ渡る空の彼方へと消えていた。
 馬の歩幅に合わせて揺れる鞍の振動が心地よく体を揺らす。手綱を握る力を緩めて前輪に右手を置いて後ろを振り返る。遠く、ナムジルたちのゲルはもう、朝霧の中でオリオン座の三連星のように小さな白い点になっていた。
 軍用のフロックコートの上から着込んだ、シルクの上着の裾が風にはためく。腰に下げた短刀と弓、矢筒が鞍の振動と共に無骨な金属製の音を立てる。馬はクフンと鼻を鳴らし、西へと歩みを進める。ナムジルの一行は正義感と忠誠心に目を輝かせ、さながら百戦錬磨の傭兵のようであった。
 空を仰ぎ見れば、どこまでも青い。東の空のオレンジの朝焼けと、宇宙を感じさせるほど濃紺な真上の青空のグラデーションは、まるで王族の着ているデールの意匠のようで、ナムジルたちを祝福しているかのようだ。
 ナムジルは高らかに、故郷の人たちを唄うボギン・ドーを歌い始めた。馬の歩みにテンポを合わせる。揺れる鐙がカシャリカシャリとリズムを奏でる。ナムジルの声は澄んでいてよく通り、モンゴルの平原を颯爽と吹く一陣の風となって遠くの丘へと流れていく。
 ナムジルにつられて周りの男たちも歌い出すと、彼らは勇壮な歌唱隊のようになった。徴兵として西の戦線へと赴くことに、彼らも思い思いの気持ちを抱えているのだろう。ナムジルはボギン・ドーを歌うことで、皆の結束が強まっていく心地がした。それは、積もる故郷の人たちへの寂しさを志へと昇華させて、勇ましくあろうとする男達らの誇りによるものだった。
 しかし、ナムジルの胸中は他の男達とは少し異なるものだったのだろう。ナムジルは高らかに歌いながら、故郷の人たちについて、ほんのり暗い目をしながら想いを馳せた。誇りの高く少し偉そうな父。お喋りで教育熱心な母。軽口を叩き合う冒険好きな友達たち。勇猛で大きな犬。大きく立派に育った家畜たち。そして、サラーナ。
 みんないい人たちだ。自分は恵まれた環境にいた、とは思う。けれど、息苦しかった。
 日々同じことの繰り返しの中で、同じ人たちに囲まれて。犬と散歩し、牛と山羊の乳を絞り、羊やラクダや馬に塩を食べさせる。行商人と取引をし、馬術を練習する。
 生まれてからの十数年間、数ヶ月に一度遊牧をしながら、ただこれだけの繰り返しであった。どの場所も景色は同じだった。青々と繁る丈の短い草がどこまでも広がっていて、その上にはいつも恐ろしいほど青い空があった。他には何もなかった。他には何ひとつなかった。いくら移動し、いくら季節を重ねても、重なっていく日々に何も変化はなかった。ナムジルにとって人生とは、ただ背丈だけが伸びていくようなものに思えた。
 そして、サラーナ。ナムジルの親もサラーナの親も、二人が結ばれることを望んでいる。ナムジルは、サラーナのことを考えると少しばかり憂鬱になるのだった。すべてが予定調和で、あらゆるものが取り決まったものとしてそこに存在していた。そこには、意志も、愛も、存在しなかった。ナムジルにとってサラーナとは、そうしたものの象徴のように思えた。よく焼けた肌、はっきりした目元、ふくよかな顔立ち。その顔から表情、所作までのすべてが、ここでの退屈なほどの不変な日々の暮らしを刻んでいた。
 しかし、そうした日々の暮らしを置いてしまったとしたら、他に何があるのだろうか。
 ナムジルの節回しがすこしブルーになる。馬の歩く速度が、ほんの少しだけ早くなった。ナムジルは馬の扱いと歌が並外れて上手い。無意識的な歌や馬への所作も、側から見れば何か意識的なもののように感じられだろうか。
 ナムジルは、決まりきった日々の延長線がただずっと続いていくことへの、ある種の反抗として、歌と馬術を磨き続けた。それが彼を彼たらしめていた。彼は孤独だった。故郷の人たちはみな、ただ一様にして彼を褒めるだけだった。ナムジルは本当に、そのことについてだけは飽き飽きとしていたのだった。
 馬を操り、風のなびく広大な草原を雄々しく男達は西へと向かう。ナムジルは胸のうちが昂っていくことを感じ、もう一度大きく息を吸って歌声に力強く思いを込めた。



「きみがナムジルかい? 前線での獅子奮迅の活躍はかねがね聞いているよ。さあ入りなさい」
 無愛想に立つ鎖帷子を着込んだ『いかにも』な門番の三人の兵の一人に手を差し出され、ナムジルは恭しく握り返す。前線とはいえ本拠のゲルは荘厳な風格を纏い、夕暮れの荒野に、まるで何かの聖堂のような威厳を纏って鎮座していた。
 ナムジルは外に留めた馬と武具を見ておくよう仲間たちに合図をし、ゲルの中へと入っていった。幾重にも重なるとばりを支える馬の胴よりも太い一本の柱が、黒褐色にぎらりと光って目を引いた。羊か山羊の油が湛えられているであろう灯蓋からめらめらと揺れる灯火が、ゲルの中を妖艶に映している。ナムジルは思わずぐっと唾を飲んだ。
「こんばんは、ナムジル」
 美しく艶やかな声がゲルのなかでひときわ暗いところから聞こえ、目を凝らす。静かにシルエットが起き上がった。絹の薄い布を一枚隔てた向こう側をナムジルは緊張しながらぼんやりと眺める。どうやら向こうから明るいこちら側は見えているようだった。
「フフー・ナムジルと申します。お初にお目にかかります」
 ナムジルは膝を立てて座った。暗くて見えなかったが、床に敷かれた絨毯には極彩色の紋様が描かれていた。西の国のものだと、いつかの行商人が持っていた高級なものと似ている。ナムジルは顔を上げ目を凝らす。が、依然として話している相手の姿は見えない。かなり位の高いお方には違いないのだろう。
「数週間に及ぶ遠征、ご苦労だったでしょう。噂は聞いているわ」
「いえ、一兵士としても役目を全うしただけであります」
 灯りの火がゆらゆらと揺れるたびに、女性の影も絹のとばりの上をゆらゆらと揺れる。ナムジルはその影を目でちらちらと追いかける。
「謙虚で素敵ね。顔も端正でかっこいいわ。私あなたみたいな男の人好きよ」
 ナムジルは恐れ多くなって床にかがむようにして伏せた。
「身にあまる光栄なお言葉、ありがとうございます」
 そのとき、風が揺らすようにゆらりと絹の布が動いた。ナムジルはハッと思って顔を上げるも、風は全く吹いていない。その代わり、美しい面持ちの女性が布の隙間からこちらを眺めている。灯蓋でくすくすと燃える赤色が女性の表情を妖艶にゆらゆらと映す。ナムジルは息を吸うことも忘れてその顔をぼんやりと見惚れた。
「私はツェツェグよ。よろしくね」
 ナムジルは目を見開いた。この方は、まぎれもなくあのツェツェグ様だった。
「……王女様……!! これはこれは、私みたいな下賎なものが失礼つかまつりました」
「ナムジル」
 緊張と畏れ多さに震えるナムジルをよそに、ツェツェグはやさしく幽玄な響きで呼びかける。
「こっちへおいで」



 ナムジルは闇に澄んだゲルの天井を冴えた目でぼんやりと眺める。ナムジルは忘我の心地で、ツェツェグのぬくもりを左半身に受けていた。天井の闇は、ただ闇としてそこにぼんやりと浮かんでいる。
 音が、無かった。ゲルに風が吹き付ける音も草がさわりと揺れる音も聞こえない。無音の世界のなか、自分の拍動の音だけが鼓膜を鳴らしている。うるさい。どくどくと心拍がやけに大きく聞こえる。運動もした直後でもないのに。こんな経験は初めてだった。胸が強く、強く、強く昂っている。
 昼間の戦争とそのあとのごたごたで全身は疲弊しきっているのにもかかわらず、心臓だけが早く打って打って止まらなかった。目が冴えてゆく。さっきのツェツェグの表情が脳裡に浮かんでは消える。その度に自分の鼓動が早まるのがわかった。
 ナムジルはどうしても寝付けなくてゲルの外へ出た。ゲルの入り口に立っていた兵士は三人とも草の上に寝袋を出していびきを立てていた。
 風のない夜の草原はすっきりするほど空気が透明に澄んでいる。ナムジルは深く息を吸っては吐き出す。もう一度。もう一度。それでも心の昂りは決して収まらなかった。月の沈んでしまった夜の空は、星が綺麗だ。またもう一度深く深呼吸をする。まるで霜柱のような星の密度の天の川が、南北に伸びている。
 ツェツェグの、まるで見たものを皆うっとりとさせてしまうような柔らかな微笑み。思い浮かべるだけで胸の内が満たされる気がして、ナムジルは思わず星を眺める目を細めた。ナムジルにとっては初めてのことだった。人と体を重ねることも、熱い誰かの眼差しも。身体と身体が結ばれることの、その甘ったるさがナムジルの身体の中をまだ走っている。人を求めるということと人に求められるということの、その両方がナムジルの中で透き通って、身体中の血管に染み渡っていた。それは足の先から頭のてっぺんまで、ナムジルの中を満たしてなお止まない。
 いくつか流星が過ぎた。ナムジルはまだ夢うつつのまま、それをぼんやりと眺めていた。脳裏にツェツェグのあの黒い長いまつ毛と、濃紺に光る瞳の翳りが消えずに残っていた。



「これをあなたにあげるわ。会いに来てよ」
 ナムジルの耳の中でツェツェグの声が何度もよみがえる。それはゴビ砂漠にさんさんと湧くオアシスのようにやさしくナムジルの耳の中で繰り返しささやいた。ツェツェグの声は小さく艶があった。憂いを含んだ声色はナムジルの耳たぶを熱くさせるほどだった。
 ナムジルはツェツェグからもらったその真っ黒な毛を持つ馬に「ジョノン・ハラ」と名付けた。ジョノン・ハラは背丈が大きく、面長の顔は整っていて、すこしだけナムジルに似ていた。なんだか相棒というよりも、寡黙な友人のような、そんな気がした。
 故郷へと馬を飛ばす。同郷へと帰る仲間の兵士たちを置いて、ナムジルはジョノンと草原を駆けていった。ジョノンのひづめは固く、筋肉質の足は長く伸びる。ユーラシア大陸の広大な大地を、二人は今まさに人馬一体となって飛び出していく。
 そのとき、ジョノンの前足の付け根の辺りから、黒い何かが左右に広がった。ナムジルはハッとして目を見張る、と同時に、全身が宙にふわりと浮き上がる感覚が身を包んだ。ジョノンの前足から広がったのは他でもない、大きな漆黒の翼であった。地面からどんどん離れてゆく。恐怖心と好奇心が首の下のあたりに広がった。
 ジョノンが羽ばたくたびに身体が強く上下に揺れる。ばさりばさりと乾いた翼の音が風に紛れる。鞍に向かって強い重力が加わる。高度と速度がどんどんどんどん上がってゆく。
 陸地が遠のいていく。やがて遠くの街の灯火が、眼下にほんの小さくなっていく。前方から吹いてくる風がどんどん強くなってきた。雲のつぶはぱちぱちと耳元で音を立て、視界を隠してはまた去っていく。星空が近い。ナムジルは少年のように目を輝かせた。ジョノンは恐ろしい速度で空を駆けていく。ナムジルは必死になって手綱を引いた。初めての感覚だったが、ナムジルは不思議と嫌な心地はしなかった。素敵だ。自由で、素敵だ。どこにでも行ける勇気が、胸の内にふつふつと込み上げてくる。周りのすべてが目まぐるしい速さで過ぎてゆく。
 ジョノンのたてがみとナムジルの髪が同じ速度でたなびいている。ジョノンが羽ばたくたびに、ナムジルの気持ちもまた上昇していった。



 それからナムジルは、何度もツェツェグの元を訪ねた。ジョノン・ハラは一夜で、国の東と西を往復できたのだった。ナムジルはひたすらにツェツェグを求め、ツェツェグはひたすらにナムジルを待ち続けた。二人は深く深く愛し合い、強く強く結ばれていた。ツェツェグの瞳の光はあいかわらず美しく、ナムジルを惹きつけて止まなかった。
 それはいままで抱いてきたどんな感情とも違った。ナムジルはツェツェグのことを考えるだけで胸が満たされて苦しくなった。なにも変わらない同じことの繰り返しな毎日に、それは唐突な差し色になった。ナムジルは生の悦びを、それを持つことの幸福を、両腕で精一杯抱きしめていた。
 幸福感はいつも、少しあとからやってきた。帰路、手綱を握りながら、ジョノンのふさふさとして艶のあるたてがみをぼんやり眺めて心の充足感を味わった。ジョノンのたてがみは月光にてらてらと輝き、妖しげな光を放っている。
「俺、この時間だけはいつも、本当の意味での自由でいられる気がするんだ」
 ナムジルは独り言のようにぼそりと呟いた。しかし声はすぐに前からくる風にかき消され、ジョノンには聞こえているのかいないのかわからない。
「どこにでもいける、何にでもなれる、世界は俺のためにあって、俺は世界のためにある。そんな気が、ちょっとだけする」
 ジョノンの空を駆けてゆく速度はいつも矢のように速い。前から吹く風に目を開けるのもやっとなほどだ。
「なんてまあ、妄言、だけどね」
 ジョノンはいつも無口だ。たまにいななきを上げるだけで、めったに声は発さない。けれどナムジルにはそれが心地よく思えた。なんとなく、ジョノンがこの心の奥をわかってくれているかのような。きっとジョノンは聞いてくれている。ナムジルはいつも適当な独り言をぽつぽつと脈絡もなくこぼすばかりだったが、しかしジョノンはいつもそれを受け止めてくれていた。
 ジョノンの瞳に光がゆらゆら揺らめいている。空を仰ぐと、満月が、表面がくっきりと見えるほど頭上に迫っていた。高揚感が醒めない。このまま月にだって行けそうだ。ツェツェグと毎夜に会えて、ジョノンとともに空を渡れる。ナムジルは自分の背中にも翼が生えたかのようだった。このままこの日々がずっとどこまでも続いてくれればいいのにとも思った。
「俺、毎日が続けばいい、なんて思ってる。同じような日々を延々と続けることに、あれほど飽き飽きとしてたのに。ずっとこんな日々が続けばなあ、なんてさ」
 ジョノンの背中の上から見れば、すべてが風のようだった。雲も、眼下の村々の火も、退屈な毎日も。
 ツェツェグと逢瀬を交わし、ジョノンと空を駆ける、そんなことに比べればそれ以外はすべては些事にすぎなかった。それだけが支えていた。他のなにをしているときも、身体の深部には、心の中核には、それがあった。ほかはすべて、風のように目の前を過ぎてゆくばかりだ。
 ナムジルの住む村の灯火が遥か彼方の下方に見えてくる。ジョノンは背に乗せたナムジルを気遣うようにして、ゆっくりゆっくりと下降を始める。
「人生は、ただ背丈が伸びるだけのもの、みたいに感じてたけど、それでいいって、思えてる。これってすごく、幸せなことなのかもなあ」
 ナムジルの声はやはりすぐに風にかき消されてしまったが、ナムジルの目にはジョノンが、かすかにうなずいてくれたように見えた。



 尾けられている、と思ったのは、灯火がやけに揺らめいていたからだった。ツェツェグと出会って、三度目の夏が近づいていた。
 ツェツェグの元から帰ってきたナムジルは、空を飛んできた興奮を覚ますためにぼんやりとゲルの壁に透けて映る灯火の炎を見ていた。ゲルの外に灯されている炎が、やけに揺れている。風はそんなになかったはずだったのに、やけに揺れている。奇妙に身体の内側が疼いた。きっと良くないことが起きている。
 ナムジルはなんだか居心地が悪くて、外に出ることにした。日が昇るまではまだまだ時間があるはずだった。胸に何か嫌な不安が、じりじりと積もり始めていた。
 ゲルを出ると、風が恐ろしいほど強くなっていた。先ほどまで飛んでいた雲ひとつなかった空には、速い速度で雲が流れては去り流れては去っていく。星の光は川面に散る月光のように、光ったり消えたりを繰り返す。ナムジルの胸が早く波打つ。身体とともに頭がどんどんと冷えてゆく。ナムジルは急いでゲルの表側へと出た。
 薙ぎ倒された足の短い草の上に、生温かい黒い液体がべっとりと広がっている。それはばら撒かれた菜種油よりも粘度を持って、じりじりと広がっていっていた。風が血の匂いを嫌になるほど巻き上げる。ナムジルは鼻を覆うことも忘れてその先にある黒い大きな塊を呆然と見つめるほかなかった。悪い予感は的中だった。真っ黒な草原の上に、ジョノン・ハラがぐったりとして横たわっていた。
 ナムジルはゆっくりと近づいてその身体に手を当てたが、もう息はしていなかった。身体はまだ温かい。外から見えないように前足のところに折りたたまれていた翼が二つ、ばっさりと切られて地面に落ちて風にさらさらとたなびいている。血はそこから溢れ出していた。周囲に散らばった漆黒の羽根が、ことの凄惨さを物語っている。ナムジルは息を吸ったまま、もう吐くことができなかった。泣くことも声を上げることも忘れて、その肌に触れた。ジョノンの黒い身体は闇夜の中でより黒く艶めいている。その不気味さがナムジルまでを包んでいた。まばたきを忘れた目が乾き、視界がぼやけてゆく。ナムジルは内臓が全部抜き取られたように放心していた。びょうびょうと音を立てて吹く風が、ナムジルの髪とジョノンのたてがみを同じように強く揺らす。
 誰かが、毎夜ナムジルがジョノン・ハラと空を駆けて西の果てへと飛び立っていっていたことに気づいたのだろう。おそらく、サラーナか、その親あたりだろうか。
 ようやく、ナムジルは茫然自失としたままジョノンを撫でた。ジョノンの面長の顔はやはり、すこしだけナムジルに似ている。ジョノンの傷口に手をおそるおそる触れる。べっとりとした感触はあるものの、血はもう止まり始めていた。胸の内に、深い黒い穴がぽっかりと広がっていく。それは徐々に大きくなって、ナムジルの全身を包むようだった。風がナムジルの髪を持ち上げる。髪は耳元でバタバタと恐ろしい音を立てる。ナムジルは悲嘆とも哀願ともとれぬ表情をして空を見上げた。
 やがて、頬にいくつも冷たい涙がこぼれる。しかし、それはあごを伝ってジョノンの上に落ちるよりも前に、風に飛ばされてどこかの空へと飛ばされていった。風は強く、いよいよ雲は星を隠していく。真っ暗な暗い夜空がナムジルの心に重い蓋をかざしていく。



 モンゴルの平原は、どの場所も同じような景色だ。青々と繁る丈の短い草がどこまでも広がっていて、その上にはいつも恐ろしいほど青い空がある。他には何もない。他には何ひとつない。
 いくら移動し、いくら季節を重ねても、重なっていく日々に何も変化はなかった。本来人生とは、ただ背丈だけが伸びていくようなものだ。
 強い真昼間の日差しが差す広大な草原を、希望に満ちた澄んだ歌声が渡ってくる。青年は膝上ほどの草木を勇敢に踏みつけて踏みつけて、ぐんぐんと歩く。擦り減った靴底が地面にはがれ落ちるのも構わず。
 彼の手には、亡き愛馬に似せた意匠のついた弦楽器が握られている。その面長な顔は、彼とどこか似ているようにも見えた。黒い馬の尾で作られた弦と弓でメロディーを奏で、青年は勇敢に、西を目指して歩いてゆく。透き通った声の西の誰かを想って歌うボギン・ドーが、広大な草原に、遠く高らかに響いている。
人生で初めて三人称で小説を書いてみました。めっっっっっさむずかったです。
もちろん、民話を書いたのも初です。稚拙で短いですがお楽しみいただけたなら幸いです。モンゴル行きたい!ビバ・モンゴル!
かぱぴー
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コメント



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1.90v狐々削除
面白かったです。読んでいるだけで旅行している気分を味わえるのは、読書の本懐かもなと。
2.80東ゆうたいけん削除
ふふーふふふふふふーふふふ
面白い名前たくさん聞きたかったな